銀狼、再び……
第35話 藍秀、白規に剣術を習う ≪1≫
握りしめた短刀を白規の背に突き立てるために、
敵を襲う時、音を立てるなと
だが、足を包む柔らかくなめした革の靴でも、崩れる砂礫の音までは消すことは出来ない。そしてどのようにしなやかに動いても、体が風を切る音も消すことができなかった。宙を跳ぶ彼女の頬を、刃の切っ先のように冷たい風が刺さる。
……風の冷たさが数日前とは違う、かすかな春の気配……
ふと気がそれたのが悪かったのか、それとも白規を倒すなど自分には到底無理だというぬぐい切れない諦めが悪かったのか。
振り返ることなく体を斜めに退いた若い宦官は、藍秀の攻撃をよけたと同時に、短刀を持つ女の右手首を容赦なく手刀で叩いてはらった。あまりの痛さに藍秀は短刀を落とし、草の一本も生えていない砂礫の上に手負いの獣のように両手をついてうずくまる。
「藍秀さん、今日はここまでにしましょう」
感情というものをどこかで捨ててしまった男の声が頭上から降ってくる。
手に棒切れさえ持つことなく、それでいて一刻もの間、ひらりひらりと藍秀の短刀の切っ先をかわし続けたというのに、その声は息のひとつもあがっていない。立ち上がろうとしない藍秀を見かねたのか、手まで伸ばしてきた。
彼の手が肩に触れた瞬間、その手を彼女は邪険に振り払った。
みじめさに、抑えきれない嗚咽がもれる。
悔しさに、溢れてきた涙がぽたぽたと落ちて、もうすぐ春を迎える乾いた砂礫を湿らせた。
昨年の秋に姉の
皇族の男はわがままで横暴だと聞いていたが、第三皇子は温厚な性質だった。新婚の二人が仲睦まじいことは、日々に陵容の傍にいる藍秀の目にもあきらかだった。
……陵容お姉さまほど美しい容姿に優しいお心の持ち主を、避ける皇子さまが、いいえ、皇子さまだけではないわ、嫌う人がいるわけがない……
十五歳にして初めて経験するきらびやかで贅沢な後宮の暮し。
年若く新参者ではあったが、陵容の妹でありまたお気に入りの侍女という立場に、父の屋敷にいた時のような苛めもない。
そのうえに今までは劣等感でしかなかった癖のある赤毛と浅黒い肌の色を、興国の神話に登場する民の再来だと銀狼教の
やがて、歳の暮れには陵容の腹に小さな命が宿り、新しい年の始まりとも重なって藍秀は高揚感に浮足立った。第三皇子の屋敷のものたち皆も同じだった。いまとなればなんと迂闊だったのだろう。
……優しい陵容お姉さまを命にかけてもお守りすると誓ったはずなのに。あたしは贅沢な後宮の暮しにひたりきって、自分の目と耳をふさいでしまい、見るべきものを見ず聞くべきものを聞いていなかった……
第三皇子の屋敷を包んでいた幸せは長く続かなかった。
それまで元気だった陵容が、ある朝、突然に体調の不良を訴えた。体が燃えるかと思われる高熱を出し、三日三晩、気を失う。
手厚い看護を受けて一命をとりとめ、三日目の朝に彼女は目覚めた。目覚めた陵容はすぐに腹の中の命を失ったことを知ったが、それでも起き上がろうともがきながら彼女は気丈夫に言った。
「流行り病にかかったのでございます。すべてわたくしの不注意にございます」
自分ほどの立場になると、腹の子を失うということが、そばに侍るものたちにどれほどの大きな影響を与えるのか。それを彼女は知っている。彼女は言葉を続けた。
「第三皇子さまはご無事でいらっしゃいますでしょうか? 大切なお子まで失くしたうえに、第三皇子さまに流行り病をうつしたとなっては、わたくしはお詫びのしようもありません」
そのけなげな言葉に、陵容の寝台を取り囲んでいた者たちは皆、声をあげて泣いた。
陵容の病の症状は、確かに、その時に完旦に蔓延していた流行り病とよく似ていた。しかしそれにしては、屋敷の中で発病したのが陵容一人だけというのは不思議だ。
流行り病は看病した者も含めてまたたくまに広がるものだ。
それに簡単には出入りできない後宮にあって、誰が病を持ち込んだのかもその足取りを調べればすぐにわかるはず。
陵容の優しい気配りのかいもなく、すぐに病の真相をさぐるためのきびしい探索が始まった。そして数日後、一人の侍女が自室で首を括って死んだ。
『陵容さまが嫁いで来られる以前より、おそれおおくも、自分は第三皇子さまに恋焦がれておりました。それゆえに、第三皇子さまに愛されてお子さままで授かられた陵容さまへの妬みは、日々に増すばかり。流行り病によく似た症状となる毒薬を手に入れて、陵容さまのお食事に混ぜたのは、わたくしでございます。死してお詫びいたします』
そのような書き置きと亡骸が見つかった翌日に、その女の実家の総勢三十人あまりが捕縛され処刑された。後宮にあがったものが後宮で犯した罪は、その一族郎党の命であがなう決まりがある。
これで一件落着のように見えた。第三皇子も陵容もまだ若い。次の子がすぐにさずかるだろう。
しかし、肝心の毒薬も特定されていないのに、あまりにも早い対応ではないか。口には出さないが、誰もがそう思う。この件を詮索されたくないものがいて、陰でその意向が働いたのか。
そして、第三皇子の不幸を望むものといえば、同じ後宮に住み、皇太子の座を争っている第一皇子一派しかいない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます