第36話 藍秀、白規に剣術を習う ≪2≫


「悲観することはありません。趙将軍も言われているではありませんか。女であっても、藍秀さんの剣術の腕前はたいしたものだと。稽古を重ねれば、おれも油断できぬほどに上達されるでしょう」


 伸ばした手を振り払われて彼女を助け起こすことを諦めた白規は、手をついて四つん這いで泣きじゃくっている藍秀のそばにおもむろに座り込んだ。その時、端正な彼の顔がかすかにゆがんだことに、うつむいていた藍秀は気づかなかった。




 陵容を守れなかった不甲斐なさに藍秀は心に大きな傷を負ったが、白規は心ではなく体に傷を負った。


 大切な陵容が病に罹りあまつさえ腹の子まで失ったことに激怒した趙将軍が、警護の不備を理由に、白規に五十回の板叩きの刑を命じたのだ。板叩きの刑といえども五十回となれば、骨は砕け内臓はつぶれて普通の男であれば死ぬ。将軍の言葉は死刑を命じたのと同じだ。


 将軍の密偵として時に冷酷無比な暗殺者として、将軍の命じるままに働いてきた白規にも言い分はある。


 宦官とはいえ身分は武官だ。第三皇子の屋敷の寝所まで自由に出入りはできない。第三皇子や陵容に常にべったりとはべっている侍女や宦官の思惑や行動までは、目は届かない。

 しかしその言い訳を口にしたところで何がどう変わるというのか。


 端くれとはいえ北辰国の王族として生まれた。攻め込んできた西華国との戦いに敗れ、一族はみな首を刎ねられ、彼は奴隷となり体も男ではなくなった。


 処刑の前にして、優しかった母は『先に逝って待っている』と、幼かった彼の耳元でささやいた。母の最期の言葉と樽の中に放り込まれた血まみれの母の顔を思い出すと、死など怖くないと思えてくる。いや、母に逢えるとなれば、死はむしろ楽しみだ。


 死を宣告されて、白く美しい面を被ったような表情のとぼしい白規の顔に薄笑いが浮かぶ。


 趙将軍はそれを見逃さなかった。

 予想外の若い男の反応に我に返った将軍は、白規の密偵としてまた暗殺者としての腕を思い出した。


 いま怒りに任せて白規を失えば、野望達成の大きな損失となる。板叩きの刑五十回を命じたあと、彼は刑の執行を任された宦官たちに向かって言葉を続けた。


「こやつの体、使いものにならぬほどには痛めつけてはならぬ。しかし、わしの怒りを消えぬ傷として背中に刻め」


 床に頭をつけて拝頭していた白規が顔を上げた。将軍の顔を無言で見つめた。薄青い目に言葉が浮かんでいる。


……そのご判断でよろしいのですか。これからおれが罠にかけ命を屠るのは、将軍の邪魔者ではあっても、皆、西華国のものたちです……


 ぞくりと将軍の肌が泡立った。


……わしは北辰国で拾った子どもを暗殺者に育てたつもりだったが、この男は得体の知れない怪物に成長してしまったのかもしれない……


 刑の執行を仰せつかったものは、将軍の言葉を忠実に守った。

 毎日毎日、後宮で働く老若男女男の背と尻を、大きく振り上げた樫の板で数をかぞえながら叩いているのだ。そのくらいの手加減は目をつむっていても出来る。


 その手加減のおかげで、まだ白規の背中の傷は癒えてはいないが、骨にも内臓にも損傷はない。藍秀との剣術の稽古でふさがっていた傷口がひらいたのがわかったが、皮鎧を通して滲みでるほどではないだろう。




 小刀を振り回すのに邪魔にならないようにと紐で縛った着物の袖口で、藍秀が涙の混じった鼻水を乱暴に拭いて体を起こした。


「そんな、そんな……。おまえの気休めの世辞なんか、聞きたくない。馬鹿にするな」


 しかし、横に座った白規を突き飛ばすことはせず、おとなしく白規の横に座る。


 きらびやかな後宮暮らしに浮かれていた自分の不甲斐なさを、白規に転嫁している自覚はある。認めたくはないが八つ当たりもいいところだ。そして、彼に剣術の稽古をつけてもらわなくては、他に誰に頼るのか。


……この男の美しい顔に心惹かれた時があったなんて、ほんと、わたしは馬鹿だった。白規、おまえがその美しい顔を使ってなにをしているか、わたしは知っている……


 生涯夫を持てない女と男根を切り取られた男。そのような者達ばかりが住まう後宮だが、なぜか二人三人と集まっての噂話は男と女のことばかり。


 初めのうちは藍秀も好奇心を抑えがたく、お喋りな先輩たちから少し離れて噂話に聞き耳を立てていた。その噂話の中にあって、若く見栄えのよい白規の名前が上がらない日はない。


「あの宦官は、誘えば否とは言わない」

「あの宦官は、美しい顔としなやかに動く舌と指で、天国を味合わせてくれる」

「あの宦官は、男も女もいける口だ」


 心の中で『白規さま』と呼びかけていたことなど、思い出しても腹立たしい。もういまでは彼に対して蔑みしかない。


……おまえが陰でなんと呼ばれているか、わたしは知っている。白い面を被った妖魔。呼び名はおどろおどろしいが、おまえは後宮にあっては、卑しいただの奴隷宦官ではないか……


 しかしさすがにその言葉は飲みこんだ。飲みこんだ言葉の代わりに、白規と剣術の稽古をしたあと必ず口にする言葉を吐く。


「陵容お姉さまを苦しめたものは、絶対にわたしが見つけ出す。同じ苦しみを味合わせる。そして、生かしてはおかない」




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