第23話 藍秀と白規の再会

  

「こちらの殿舎の敷地は広い。もしかして、迷われましたか?」


 突然、背後の暗闇から声がして、藍秀は飛び上がらんばかりに驚いた。さすがに厳粛な夜のしじまを破るような悲鳴は飲みこんだが、手に持っていた盆が傾く。乗せた酒甕と盃が盆の上を滑った。


 ――落ちる!――


 しかし、後ろにあった人影は素早い動きで藍秀の前にまわり、盆を支えた。その動きは、自分が声をかければこうなることを予測していたかのような俊敏さだ。藍秀の驚きぶりに、藍秀の前に立ったその人影は暗闇の中でくすりと笑う。


「藍秀さま……。いえ、藍秀さん。後宮にあっては、たとえ将軍のお嬢さまであっても、宦官が侍女にさまづけで呼びかけるのは不自然でしょう。これからは藍秀さんと気軽に呼びかけることをお許しください」


 少年のように甲高いがけっして耳障りではない声は、宦官の白規だ。


 傾いた盆を支えるために腰をかがめた彼の顔が目の前にあって、思わず藍秀は身を引く。なぜなら振り返って殿舎をながめ、第三皇子との初めて夜を過ごす陵容の幸せを願ったあと星空を見上げ、『白規さまは、花嫁行列の護衛の中にいらしたのだろうか?』と、一瞬だが、ふとそちらに考えが飛んだからだ。


 今夜、初めて足を踏み入れた後宮だったが、あたりをきょろきょろと見回すことは禁じられていた。それで、先導する宦官の持つ提灯に照らされた夜道で頭を垂れて、自分の足もとばかり見ていた。そのために、行列は宦官の武官たちに左右を守られてはいたが、その中に白規がいるのかどうかは確かめようがなかった。


 突然、暗闇から話しかけられて驚いたものの、『やはり、白規さまはあの行列の中にいて、陵容さまをお守りしていてくださったのだ』と、確信し安堵する。しかし、なかなか収まらないこの胸の動悸は、驚いたためだけなのだろうか。


 目の前にある男の顔は星明りに照らされて、はかなく咲く夏の一夜花のように白く美しい。女でもねたましく思う長い睫毛と形のよい鼻梁が、蒼い影を作っている。武官である証の耳垂れのついた皮の帽子を脱いでいるのは、警護を終えて公務から離れているという証だ。後れ毛の一本もなく結い上げて髷を作った黒髪が、濡れているように輝いていた。


 暗闇では彼の薄青い目の色が見えなくて残念だと思う自分に、藍秀はますます動揺した。想いだけが溢れて言うべき言葉が思い浮かばず突っ立っている彼女に、白規が再びくすりと笑う。


「藍秀さん、お疲れでしょう。わたしが盆をお持ちいたします」


 暗くて差し出された手は見えなかったが、そのぶん、感覚が敏感になっているのだろう。彼女の手を包みこむように重なった白規の手は冷たいのに、彼の手に触れた彼女の手の甲はひりひりと熱を帯びる。


「いいえ、そんな……。白規さま……」

 初めて会った日に『白規』と呼び捨てるようにと言われていたが、ついつい心の中では白規さまと偲んでしまう。慌てて言い直す。

「白規こそ、警護の任務は気の休まることがないでしょう」


「ご配慮、痛み入ります。しかし藍秀さんは、いまはご自分の心配をなさったほうがよいのでは?」


 その言葉に、あたりを見回した藍秀は自分が迷子になっていることに気づく。盆を抱えていた手が緩んだ。すかさず盆を受け取った白規は藍秀の横に並んで立つと、今まで彼女が眺めていた星空を見上げて言葉を続けた。


「完旦で見る星々も美しいですが、幼い頃に見上げたわたしの国の夜空の星々も美しいものでした。しかし、わたしの国は十年前の戦いに敗れて西華国の属国となり、その名も消滅してしまいましたが。それでも今も、星々は変わることなく輝いているのでしょう」


 そのあまりに淡々としたものの言いように、頭一つ背の高い男の横顔を藍秀は見上げた。


 白規の年齢は自分より二つ年上の十七歳だと聞いている。趙家の意地悪な義兄弟とそう変わらぬ少年と言ってよい年齢だ。自分は十五歳だが、それでも大人びているとよく言われる。それはやはり虐げられた苦労の多い日々のせいだろうと思っている。白規が宦官となって完旦に来た経緯も噂で聞いている。そうなると彼の完旦での十年の日々は、どれほどの苦渋に満ちたものだったのだろう。


「藍秀さん、ご存じですか? 中華大陸の真ん中に行くほど夜空の星は高いところにあって小さく見えるとか。空とは中華大陸にお椀を伏せたようなもだから、そうなる理屈なのだとか……」


「あら、そうなのですか」


「わたしも人から聞いた話でしかないのです。しかしいつか、馬を駆け草原を越えいくつもの国を通り過ぎて東に行き、その言葉の真偽を確かめたいものだと思っています」

 無言で星を見上げていた白規だったが、しばらくしてぽつりと呟いた。

「願っていれば、いつかは叶うでしょうか?」


 藍秀が初めて聞く十七歳の少年のあこがれと戸惑いが、その声にはあった。だが侍女と宦官という身分の違いこそあれ、一度後宮に入れば再び外の世界に出られないことは二人とも知っている。白規のその願いを叶えるには屍になるしかない。


 藍秀は答える。

「そういう日が来るといいですね」

 それは自分への慰めでもありまた覚悟でもあった。



                       <婚礼の夜>終わり


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