第22話 婚儀の夜
花嫁行列が足を踏み入れた第三皇子の……、いや元は彼の亡くなった母の住まいであった殿舎は、真新しい木の香りを初秋の宵闇に漂わせていた。
禁軍の将軍・
前を行く宦官が持つ手燭にぼうっと照らされた足元を見つめて、手を引く
建物と建物を結ぶ屋根つき回廊は、木々が黒く影を落とす中で複雑に折れ曲がっている。初めての場所ということと、遠目の利かない夜ということもあって、いま自分が殿舎のどこを歩いているのかまったく見当がつかない。まして、花嫁衣装の陵容は頭から被った赤い面紗ですっぽりと顔を覆っているのだから、その足元も胸の内も藍秀よりもずっと心もとないことだろう。
閉ざされた扉の隙間から灯りの漏れる寝所の建物の前にたどりついた時は、陵容と藍秀二人の口から同時に安堵のため息が漏れた。
第三皇子と陵容が初めての夜を迎える寝所は、昼の明るささながらに煌々と燭台が輝いていた。
部屋の中はすべてが赤いもので飾り立てられている。
今夜のためだけに赤い毛氈が床に敷かれて、柱には赤い造花で飾られた赤い布が巻かれている。寝台の寝具も赤く、それをとりまく帳もまた赤い。その中にあって寝台の端に腰をかけて花婿を待つ陵容の衣装も赤い。頭の上から被った面紗も金糸で花々を刺繍した衣装も、足元の
面紗で顔を覆っている花嫁の陵容の表情は伺えないが、伸びた背筋と膝の上で揃えられた両手の指が先ほどから微動だにしない。少しでも動けば周りの張り詰めた空気が取り落とした
そのような女主人の緊張を察して、彼女をとりまく侍女たちもまた頭を垂れ作り物の人形でもあるかのように立ち、やがて遅れて現れるであろう第四皇子を待った。
その中にあって、藍秀も小さな赤い盆を捧げ持ち立っていた。盆の上には夫婦契りの盃に使われる白磁の酒甕と小さな盃が二つ載っており、それもまた赤い布で飾られている。夫婦固めの盃を執り行う大役を、彼女はおおせつかっている。
扉の軋む音がした。
寝所に流れ入って来た微かな風に燭台の火がいっせいにゆらめく。
寝台に腰を下ろしている花嫁はもちろんのこと侍女たちの誰も顔を上げないが、婚礼の宴席を抜けて花嫁のもとにやってきた第四皇子のために戸が開かれたのだとわかった。
宦官といえども主人の寝所までは入ることは許されていない。案内の宦官に下がるように命じる短い言葉が聞こえたあと、藍秀の伏せた目の前を花嫁とお揃いの赤い着物の裾と
藍秀が第三皇子の傍近くに立つのは今日で二度目だ。
一度目は、まだまだ修行の足りない新米侍女として、第四皇子と陵容が婚儀の決まったことを銀狼教の寧安上人に報告する場に付き添った。あの時もただただ頭を垂れて無事に時の過ぎるのを願い、今のように第三皇子の尊顔をまともに見るなどできなかった。
漏れ聞く噂では、第四皇子は顔かたちもよく背も高くと、見目麗しい若者だそうだ。そしてその気質も聡明で穏やかであるとのこと。
人の持つ気というものは、その体から自然に発せられてまわりに漂うものだ。たった二度彼の近くに立っただけだが、噂は真実だと藍秀は確信している。第三皇子のゆったりとしたそれでいて迷いのない足運びを見つめながら、彼女は思う。
――必ず、陵容お姉さまはお幸せになる。いいえ、必ず、お幸せになっていただかなければ。そのためであれば、わたしはどのようなことでもする、お父上さまとも約束したように。そして、蘆信と梠爺のためにも……――
第四皇子が寝台の端に座る花嫁の横に腰を下ろした気配に、藍秀は我に返る。自分の出番が来たことを知って、彼女は盆をよりいっそう高く捧げ持ち、一歩前に歩み出た。
※ ※ ※
こころもち軽くなった酒甕をのせた盆を持った藍秀は、回廊の途中で足を止めた。そして回廊の端に寄り、あとに続いていた者たちに道を譲った。
陵容の頭より抜かれたたくさんの簪や脱がされた婚礼衣装を手にした侍女たちが、藍秀の横を無言で通り過ぎていく。その後ろ姿を見送ったあと、藍秀は溜めていた息を吐きだした。今日一日ずっと張り詰めっぱなしだった緊張の糸が緩むのを感じる。
涼気を含んだ夜風が火照った頬に心地よい。ずっと俯いていたためにかちかちに凝り固まっていた首を伸ばして見上げれば、夜空は手を伸ばせば届きそうな満天の星だ。
いま出て来たばかりの寝所を振りかえる。扉から漏れるほど煌々と輝いていた燭台の灯りは消されて、他の建物と変わりなく静まりかえっている。そこでいまなにが為されているのか、全く知らないというほど彼女は子どもでもなく、しかし知っているとはっきり言えるほどの大人でもない。
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