第21話 藍秀の2つの願い
はからずも将軍である父を見下ろす格好となってしまったが、そのようなことに彼女はかまってはいられなかった。
「そ、それから、梠爺は? わたしがいないと、老いた梠爺は自分の食べることの心配すらできません」
予想だにしていなかった藍秀のむき出しの怒りに蘆冨は驚く。彼女を陵容の侍女にすることは考えたが、正直言って、十歳の蘆信や老いぼれた奴婢の行く末など彼の頭の中になかった。しかし武術の腕前と賢さとともに、彼女の理不尽なことに対する怒りもまた彼の計画に不可欠なものだ。
「生意気盛りの蘆信や呆けた奴婢の心配をする時か?
いったん後宮に入れば、たとえその身分が妃ではなく侍女であっても、もうそこから出ることは叶わぬぞ。確かに侍女として、美しい着物を身にまとい、飢えとも無縁の暮しだろう。だが、宮女と宦官ばかりで、後宮の暮しには想像を絶する気苦労があると聞いている。
皆にかしずかれる妃ですらそうであるのだから、侍女ごときは押して図るべきだ。
そしてその中で無事に生き抜いても、いずれおまえは老いて死ぬ。高い塀に囲まれた狭い後宮から一生出ることなく、文字通り骨を埋めることになるぞ」
蘆冨は戦場で百戦錬磨の強者だ。思ったことをたやすく顔色に出すことはしない。藍秀を見上げてことさら落ち着いた口調で言う。もう少しこの小娘を脅してその反応を見るのもよいだろう。
「しかしおまえが怖気づいたところで、おまえの後宮勤めはすでに決まっていることだがな」
その言葉に少女の尖っていた肩が落ちて丸くなり、二つの目の燃えるような黒い輝きが静まった。
――やはり、噂でしか知らぬ後宮暮らしに怖れをなしたか。世間知らずの子どもということか――
蘆冨がそう思った時、藍秀の口が開いた。
「陵容お姉さまの今までのご厚情に恩返しができるのでしたら、陵容お姉さまの侍女となり後宮で暮らすことに、なんのためらいもありません」
そこまで言って、彼女は自分が父を見下ろしていることに気づいたようだ。慌てて自分が倒した椅子の横に座り、平伏し頭を床につけた。
「陵容お姉さまのお役に立てられるのでしたら、この命を惜しいとも思いません」
「おお、我が娘ながら、あっぱれな心がけだ」
頭を下げたまま、藍秀はくぐもった声で言葉を続ける。
「しかしながら、父上さま。わたしが陵容お姉さまの侍女となるにあたって、ただ一つだけ……、いえ、二つだけ、お頼みしたいことがあります」
「一つではなく、二つか……。欲深いことだな。だが、その二つの頼み事が叶わなくとも、おまえの運命はすでに定まっている。そして、その二つの頼みごとを聞けるかどうか、それはあくまでもこの父が決めることだ。それがわかっているのであれば、聞くだけであれば聞いてやってもよい。顔を上げることを許す」
その言葉に従い顔をあげた藍秀は、怖れを知らぬ瞳でまっすぐに蘆冨を見つめた。父に念を押されなくともすでに彼女の気持ちは決まっている。
「一つ目は、弟の蘆信のことです。あの子はいまは手に負えない乱暴者ですが、もともとは賢い子です。いまの先が見えぬ日々に心が折れているだけです。どうか、蘆信が心置きなく勉学と武術の稽古に励めるよう、お父上さまのお力でご配慮くださいませ。そして蘆信が大人となった時には、趙氏の血を継ぐものとしてそれなりの地位と、よい家柄のおなごを嫁にお迎えください」
「まだ十五歳で、自分のことよりも弟の将来にそこまで心を砕くとは……。よし、わかった、何も心配することはない。陵容さまの侍女となる者に恥をかかせるわけにはいかないからな」
先ほどの我を忘れた藍秀の怒りも蘆冨には予想外だったが、一つ目の頼み事との内容もまた予想外だった。
「おまえに言われなくとも、蘆信の父として当然するべきことはするつもりでいた。おまえがいなくなったあとのこの屋敷で、腹違いの兄弟の中で何ごとも比べられながら暮らし続けるのは、蘆信も辛いだろう」
彼は目を細め腕を組みなおし、しばし考え込んだ。
「そうだな、おれの信頼する家臣に蘆信をあずけよう。心当たりはある。やつは子沢山で子育てには慣れている。同じ年頃の男の子たちと混じって賑やかに市井で暮らすのが蘆信にはよさそうだ。もちろん、成人すれば、よい地位を与えよい家柄の妻もまた迎えてやろう。父の言葉に二言はない。これで満足か?」
藍秀が頷いたのを確かめて、蘆冨は続けて言った。
「では、二つ目の頼みごとを聞かせてもらおうか」
「梠爺のことです。母亡き後、親代わりとなってわたしと蘆信を育ててくれました。用済みになったからと言って、放り出すことはできません」
突然、蘆冨は笑い出す。
「どのような頼み事かと思えば、今度は、老いた奴婢の行く末のことか。それならたやすいことだ。その奴婢の身内を探し出し、過分の金子を与えて引き取らせよう。それでよいな」
「ありがとうございます」
再び平伏した藍秀をしばし見つめたあと、蘆冨は人を呼ぶために手を叩いた。すぐに一人の従僕が姿を現す。
「藍秀を連れていけ」
そして立ち上がりかけた藍秀に目を移し、彼は言葉を続ける。
「では、下がるがよい。陵容さまの侍女に相応しい者となる修行は厳しいぞ。それも残された時はたった三か月だ。今より、覚悟せよ」
立ち去る十五歳の娘の後ろ姿を見送りながら、彼女の意思の強さと賢さに少なからず蘆冨は舌を巻いた。そして思う。
これが吉となるのか、凶となるのか……。
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