第20話 趙将軍のひそかな企み
※ ※ ※
この十五年、覗きたくとも足を踏み入れたくとも叶わなかった、父・
「父上さま、遅くなりました。母上さまがたもご機嫌麗しゅう存じます」
久しぶりに公務より離れ宮中から屋敷の自室に戻った趙蘆冨は、すでにいかめしい鎧を脱いで卓を前に椅子に座りくつろいでいた。そのような夫の横で彼の美しい妻たちは、いそいそと茶を淹れ皿の上の水菓子を取り分け、夫が留守の間の出来事を姦しくお喋りしている。その様子を目を細めてながめて楽しんでいた蘆冨だが、藍秀の挨拶におもむろに視線を移した。
「そのように、他人行儀にかしこまらなくてもよい。親子ではないか」
よほどこのセリフが気に入ったのか、朝に続いて彼は藍秀に同じ言葉を言った。そして視線の合図だけで妻たちに下がるように命じる。美しい妻たちはいちおうに不満顔となったが、逆らうことはない。突然に現れた卑しい者にさげずんだ一瞥をくれたあと、衣擦れの音をさらさらとたてて部屋を出て行く。
父の住む屋敷に足を踏み入れる以上、藍秀もそのような義理の母たちの仕打ちは覚悟の上だ。彼女たちの後ろ姿を平伏して見送ったあと顔をあげると、藍秀は父の部屋の中を見渡した。自分と弟が暮らしている小屋とは別世界と思える美しい調度品の数々に、好奇心はおさえきれない。
おのれの立場を忘れて、無作法な――と、まだ横に立っていた案内の男が藍秀をたしなめようと口を開きかけた。しかしこれもまた蘆冨は上げた手の動きだけで制した。
まったく自分に似ていない赤毛できらきらと輝く黒い瞳を持った娘の横顔を、彼はしばし見つめた。そしてその顔に
十年前にまだ子どもだった白規を見た時もそう思ったものだ。
自分の生まれ育った国を滅ぼし親兄弟を並べて首を刎ねていった男を前にして、異国の皇子である子どもの薄い空色の瞳には恨みも悲しみも浮かんでいなかった。周囲の危惧を押し切って彼を引き取り、宦官の手術を施し武術を教え込んで後宮に送り込んだ。十七歳の少年となった白規は彼の期待通りに成長している。
だが、ずっとなにかもう一つ足りないという思いがあった。
白規と対になる何か……。
後宮は宦官と宮女で成り立っている。後宮といっても、宦官と宮女、それぞれに入り込める場所は違う。宦官は白規で事足りるが、陵容の婚礼を三か月後に控えても、いまだに彼の思惑に添った宮女が現れない。まさかそれが、自分の住む屋敷の片隅で育ち、十五歳となっていたとは。
――あの女に惹かれて子を生ませたことに間違いはなかった――
上機嫌な声で彼は言った。
「藍秀、そのようなところにいつまで座り込んでいるつもりだ。さあさあ、部屋に入りなさい。いやその前に立って、娘らしく着飾ったその顔と姿を、この父に見せてくれ」
屋敷の奥のどこからか楽器を奏でる音色が聴こえてくる。それは耳をすまさねば聴き取れぬほどのかすかな音だが、旋律ははっきりと心地よく響いていた。宮中を守るという激務を離れて久しぶりに戻ってきた主人を、楽の音色で優しく慰めようとの気遣いなのだろう。
先ほどまで咲きほこった花のように姦しくお喋りに興じていた女たちの熱気が、部屋の中のそこかしこにまだ漂っているように感じられる。彼女たちの着物に焚きしめられていた残り香が、藍秀の鼻孔をくすぐる。
従僕も侍女たちも下がらせたので、部屋の中には父の蘆冨と娘の藍秀の二人だけとなった。
風炉のうえで松風を立てる釜より柄杓ですくった湯で自ら茶を淹れると、蘆冨は藍秀にすすめた。しかしその後の彼の言動は軍人らしく単刀直入だった。
「藍秀、おまえは陵容さまにいたく気に入られている」
「もったいないお言葉ですが、もしそうであれば、とても嬉しく思います」
なぜ父に呼ばれたのかまったく見当のついていない藍秀は、そう答えるしかない。
「それでだ、藍秀。おまえには陵容さま付きの侍女として、後宮に入ってもらうことにした」
「えっ?」
「いくらなんでも今のままでは後宮で陵容さまに仕えることは出来ぬから、今日から礼儀作法と言葉遣いをおぼえてもらう。おまえの部屋はこちらに用意した。もう、生まれ育った小屋に帰ることはできない。陵容さまの婚礼まで、たった三か月しかない。覚悟せよ」
ここに来る途中、父に呼ばれた理由を藍秀なりに考えた。しかし、父の気まぐれと思う以外に、思いつくどれもこれも納得できるものはない。姉・陵容の侍女となり後宮に入れとは、小指の先ほどにも及ばぬ考えだった。そのうえに、あの家に帰ることが出来ないとは。
叫んで立ち上がった藍秀の後ろで椅子が音を立てて倒れた。
「蘆信は……。 わたしが帰らなければ、弟の蘆信はどうなります?」
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