第19話 第三皇子と陵容の婚儀
夜の
第三皇子の婚礼がある今夜は皇帝のお渡りがない。あまたいる妃も侍女も宦官も早々に火の始末をして、床に就いるはず。寝ずの番も柱や壁に背中をあずけて、うとうとしていることだろう。
妃たちの住む殿舎のかたく閉ざされた門扉に掲げられた提灯と、屋根の四隅に下げられた吊り灯籠の橙色の灯りが、木々の枝と屋根が重なる暗闇の中に薄ぼんやりと浮かんでいる。その灯りを
やがて、ここだけはたくさんの提灯で飾られたひときわ明るく開け放たれた門の前で、輿はとまる。第四皇子の住居についたのだ。輿が下ろされた。
輿の後ろにぴったりと寄り添っていた
「陵容さま、第三皇子さまのお住まいに着きました。ご案内いたします。お手を……」
輿の中に座る陵容だけに聞こえる小さな声でそう言って、藍秀は手を差し伸べる。それに応えて輿の中からすっと白い手が伸びて、藍秀の手の上に重なった。
だが、その手は氷のように冷たい。初秋の露を含んだ夜気の中を輿はゆるゆると進んだが、体が冷えきってしまう寒さではない。手の冷たさに、藍秀は姉の緊張を痛いほどに感じた。人からどのように贅沢三昧の話を聞かされようが、今夜から始まる後宮暮らしは陵容の手を凍らせるほどに想像つかぬものだ。
『第四皇子の妃となられた陵容さまのお体は尊いもの。それゆえに、差し出された手はそっと受け止めても、決して握り返してはならない』
後宮からやってきた年寄りの宦官に、侍女となる特訓の一つとしてそう教えられた。しかしいまは姉の手を温めたい。そして姉の幸せのためなら命も惜しまぬ自分がいつも傍にいるのだと伝えたい。
手の平の上に乗せられた氷のように冷たくなめらかな姉の指先を、藍秀は包みこむようにしっかりと握りしめた。それに応えるように白い手も握り返してくる。
※ ※ ※
三か月前のあの日。
湯浴みを終えた藍秀のもとに、父・
藍秀を板の間に座らせたその女は、濡れて水滴がしたたり落ちる癖の強い彼女の赤毛を苦労して結い上げた。髪結いの道具箱の中には白粉や紅も入っていたが、女は化粧をほどこすのはあきらめた。浅黒く荒れて粉を吹く少女の顔に化粧をしても、滑稽になるだけだ。女は小さなため息をひとつ吐く。
――まずはこの少女に毎日よいものを食べさせて、顔もその肌も陽や風にさらさぬ暮しをさせなくては。お屋敷に戻ったら、将軍さまにそう申し上げよう――
なんとか髪を結い終わると、女は藍秀を立ち上がらせる。そして今度は手際よく着物を着せつけた。
俯いてこっそり吐かれた女のため息だったが、藍秀は耳ざとく聞きつけた。しかし十五歳の彼女はそれを聞き流す術をすでに身につけている。
趙氏の血を受け継ぎながら、使用人さながらの貧しい暮らしぶりに、趙氏の者達から
彼らの理不尽な言動をいちいち気にしていたら生きてはいけない。
人に髪を結われるのも着物を着せつけられるのも、藍秀には初めての経験だ。五歳の時に母が亡くなってより、自分のことは自分でしてきた。
五歳の時から彼女は自分のことは自分でしなければ、そしてなりふり構わずあらゆることに賢く貪欲でなければ、生きていけなかったのだ。
「藍秀さま、お支度は整いました。将軍さまを待たせてはなりません。参りましょう」
その言葉に頷いたものの、外で薪割りをしている梠爺に声をかけるべきかどうか藍秀はためらった。
――いや、すぐに戻ってくるのだから。見知らぬ女と一緒だと、梠爺が混乱するだろう――
あとであの時、梠爺の顔を見て声を聞いておくべきだったと、藍秀は悔やんだ。まさか二度と生まれ育った小屋に戻ることが出来なくなるとは。そして、梠爺に逢うことが出来なくなるとは。
その後、藍秀は時々、なつかしく梠爺を思い出し、そして、これもまた二度と逢えなくなった銀色の毛並みを持った狼のことを思い出した。あの家とはとても呼べぬ小屋の棚の奥に隠した菓子はどうなってしまったのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます