第17話 銀狼と藍秀


 傾いた門を出て行く父と白規はくきと名乗った若い宦官を見送ったあと、陵容りょうようからもらった菓子の入った竹籠を抱いたまま、藍秀らんしゅうは家の中に駆け込んだ。


 狭く汚い家の中はいつも薄暗く、そのうえにいまはくりやの土間に薄紫色の煙が漂っている。戸口を後ろして立った彼女は初夏の明るい陽光に慣れた目を細めて、老いた男の丸い背中を探した。


梠爺ろじい!」


 梠爺はくりやの隅にしゃがみ込んでいた。火吹き竹を口に当てて、なんとかかまどの火を熾そうと奮闘している最中だ。


「梠爺、先ほど、将軍さまと陵容さまがお見えになられていたのよ」


 藍秀の言葉に、ぼろ布をまとった老いた男はゆるゆると振り返る。しかしそれは背後に人の気配を感じたからで、自分への言葉を理解したからではない。


 彼の耳はほとんど聞こえていない。でなければ、将軍さまという言葉を聞いただけで、外に飛び出したことだろう。そして、誰もいない門にむかって土下座し、挨拶に出遅れた非礼を詫びるにちがいない。


 かまどの焚口から噴き上げる煙にげほげほとむせながら、老人は的外れな言葉を返した。


「お嬢さま、昼餉の汁物を作っておりますで、いましばらくお待ちくだせえ」


 かまどの上をみれば、汁物の具材が入っているはずの鍋には水だけが満たされている。耳も遠いが、最近の彼は頭の働きのほうもあやしい。


 いつもであれば、竈に火を熾すのは蘆信の仕事で、昼餉の台所支度は藍秀の仕事だ。だが蘆信は逃げてしまい、藍秀も父に呼ばれたのでその支度に忙しくなり、それどころではない。


 藍秀の困り顔とその視線の先の鍋を交互に見やった梠爺は、自分がなんらかの間違いをおかしたと気づいたようだ。


 皺だらけの顔が歪み小さく縮んだ体がわなわなと震え出した。『呆けたおまえなど、そのうちに趙家から追い出される』と、使用人仲間から彼はしょっちゅうからかわれている。そのためにここから追い出される恐怖だけはしっかりと頭の中に刷り込まれていた。


 枯れ枝のような両手を胸の前で合わせて、藍秀を拝む。

「お嬢さま、お許しください、お許しください」


「梠爺、何も心配しなくても、いいのよ。将軍さまに呼ばれているので、わたしはこのあと湯浴みをしなくちゃいけないの。湯を沸かそうと思っていたところだから、ちょうどよかったわ」


 おまえに火を扱われて、火事を起こされては大変だ――、という喉まで出かかった言葉はぐっと飲みこむ。


 母亡き後、自分と蘆信を親代わりになって育ててくれた梠爺だ。呆けたからといって追い出すような非情なことが、彼女に出来る訳がない。それでも、最近ますます反抗的になった弟の蘆信と呆けた梠爺の行く末を背負い込むには、十五歳の藍秀の肩は細く小さかった。


「ここはわたしに任せて。そうね……、おまえには外で薪割りをお願いするわ」


 薪割りの意味が理解できたかどうか。しかし、煙から解放されることだけはわかったようだ。


「へえ、お嬢さま。そういたしやす」


 ささくれたほうきの先のような白いまげを頭に乗せて、よろめきながら梠爺は外に出て行った。その後ろ姿に、ため息が漏れる。


 しかし、気を取り直すしかない。


 胸に抱いていた竹籠の持ち手を、右手に持ち替える。煤と土埃で汚れた卓上を、空いた左手の袖口でごしごしと拭き清めて、そのうえに竹籠をそっと置いた。


 竹籠の蓋を取れば、皇帝陛下よりの賜りものだという、色も形も珍しい美味しそうな菓子が並んでいた。


――もったいないけれど、これを今日の昼餉の代わりにするしかないわ。陵容お姉さま、ありがとうございます――


 梠爺を真似るわけではないが、彼女もまた両手を胸の前で合わせて竹籠を拝む。そして、一番小さい菓子を選んで口に入れる。甘いよい匂いのするそれは噛むのを待つことなく、ほろほろと口の中で溶けていった。もう一つと手が伸びたが、あわてて引っ込める。


――あとは、蘆信と梠爺のために残しておかなくちゃ――

 そして、ふと思う。

――あれは、甘い菓子を喜ぶだろうか?――


 あれとは、銀色の毛並みをした大きな狼。


 一年前より、水汲みや洗濯に小川の流れる岩場に入ると、藍秀以外に誰もいないのを見計らったように、彼女の前に一匹の狼が現れるようになった。


 初めは襲われると警戒したが、ただこちらを見ているだけでその様子はない。何度か出逢ううちに一人と一匹の距離は少しずつ狭まって、半年過ぎると、そのふさふさとした銀色の毛に触れることができるようになった。今では藍秀が座り込むと横にうずくまり、彼女の一方的なお喋りを飽きもせず聞いている。


 時々、山羊や兎の干し肉を持参するが、狼はそれを鼻先でつつくだけであまり嬉しそうではない。食べ物に不自由していないのか、獣でありながら口が奢っているのか。


――……であれば、あれは甘い菓子を喜ぶだろうか?――

 

 もう一度考える。そして、竹籠から菓子を一つ取り出し皿にのせると、蘆信や梠爺に見つからないようにと、藍秀は戸棚の奥に隠した。


 誰にもこの狼のことは話していない。人に害をなすものとして、矢でも射かけられたら可哀そうだ。  



                       <寧安上人と銀狼教>終わり

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