≪2≫

 

 寧安上人ねいあんしょうにんを椅子に座らせたあと、卓の上にずらりと並んだ皿や椀の蓋をとりそして並べ替えてと、早慶そうけいはせわしなく手を動かしていた。だが、生来がお喋りな性質であるために、手だけでなくついつい口も動いてしまう。


「お上人さま、これはなんと美味しそうな……。羊の新鮮な肝のなますにございます。お体のためにも、これはぜひ召し上がってくださいませ」


 銀の椀の蓋の下から現れたのは、赤い血の色がいかにも食欲をそそる羊の肝の薄切りだ。


「添えられているのは、せりの浸しにございます。清流のような爽やかな香りが立ち上っております。こちらもごいっしょに召し上がれば、お口の中がさっぱりと……」


 そこまで言って、寧安上人が目深にかぶった頭巾の内でかすかに笑っていることに気づき、彼はうろたえた。


「も、も、申し訳ございません。お上人さまのお傍に仕えるまでは、厨房ちゅうぼうで働いておりましたので、ついつい、差し出がましいことを申し上げてしまいました」


「よいのだよ、早慶。おまえの話はためになる」


「そ、そ、そのようなありがたいお言葉を、わたくしになど。有慶さまが……」


 顔色を青くしたり赤くしたりしながら、一か月前、自分を後任に押したあと人知れず完旦を去っていった、僧侶の名前を早慶は言った。

「……、有慶さまが、おまえはよく気がつき賢いが、そのお喋りな口だけが心配だと言われました」


「有慶には有慶の考えがあっただけのこと。おまえはおまえらしくあればよい」


 寧安の言葉に、若い僧侶の顔が明るく輝く。そして次に玻璃はりの器の蓋をとった彼は、感嘆の声をあげた。


「これはなんと珍しい! お上人さま、茘枝れいしの実でございます。この夏の初物を氷漬けにして、遠く南の国から早馬で運ばせたのでございましょう。一粒食べれば、寿命は十年延びるとか。こちらもぜひに召し上がっていただかなければ」


 これ以上寿命が延びてどうすると思い、早慶のまじめな口調に寧安は目深にかぶった頭巾の下で笑いを噛み殺した。まったく陰りというものがない若い男の声だ。相手を喜ばすために喋ることを楽しむ、その声の響きに、寧安は五百年昔を思い出す。


 ――五百年前、聞き上手な銀狼さまを相手に喋り続けた自分も、早慶と同じ声色であったのだろうか?――


 今日はなにごとにつけて昔が懐かしい。人の世は移ろうが空の色は変わることがないと、感傷にふけってしまったせいか。この若者を相手に、あの日のように軽口を楽しみたくなった。


「いつも、おまえに教えてもらうだけでは、わしの上人という呼び名が泣くであろうな。そうだ、早慶。今日は、わしもおまえに一つ教えてやろう」


「えっ、お上人さま、それは本当でございますか?」


「おまえに嘘を言ってどうなる」


「も、も、申し訳ございません。ま、ま、また、わたくしの口がいらぬことを」


「そのように謝ることはないと、先ほどから言っておるであろう」

 寧安は若い僧侶の緊張を解くと、言葉を続けた。

「では、ひとつ尋ねるが。早慶、おまえたち僧侶の法衣や作務衣さむえが、なぜそのような茶色であるのか知っておるか?」


 僧侶たちが身にまとう法衣や作務衣は、白山羊の毛を紡いで織った布を木の皮で茶色く染めたものだ。夏は素肌にまとえば涼しく、冬は重ねれば暖かい。


「それは……。それは、目立たぬためではございませんか」


 自分の着ている茶色の作務衣をしげしげとながめたあと、小首を傾げた早慶は答えた。


「わたくしが七歳の時に父が亡くなりました。それで、生活に困窮した母にこちらの僧坊に連れて来られました。口減らしのためでございます。いえ、母を恨んでなどおりません。当時のわたくしには、年端のいかぬ弟や妹が三人おりましたから。それに、いまではお上人さまのお傍近くに仕えさせていただく、光栄ある身にございます」


 そして、自分の話が上人の問いから離れていることに気づいて、またその顔が赤くなり青くなる。


「気にすることはない。思い出すままに、語るとよいぞ」

 五百年前に銀狼が自分に言ったのと同じ言葉を思い出して、彼は若い僧に言う。


「お上人さま、ありがとうございます……。その時に僧坊長さまより、『銀狼教は、代々の半氏さまのご健勝と繁栄を祈るためにある。そのことだけを考えて、日々に読経に励み、お上人さまにお仕えせよ。おまえは今日より皇帝陛下さまとお上人さまを支える影となる。決して目立ってはならない』と、教えられました」


「ほう、そのようなことが……。まあ、おまえの言うことは、当たらずとも遠からずだな。その衣の色は、興国の神話に出てくる大木の幹の色だ」


「銀狼さまのお導きでこの地に流れ着いた砂漠の民が、その実で飢えをしのいだという、あの大きな木の幹の色でございますか?」


「そうだ、この西華国を治める半氏を支えた続けた大木の幹の色だ。それゆえに、僧坊長の言葉は正しいともいえる」




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