第12話 趙将軍の決意


 陵容りょうようと侍女たちの後ろ姿を、趙蘆冨ちょう・ろふはうやうやしく頭を下げて見送った。


 しんがりを行く侍女の後ろ姿が視界から消えると、おもむろに拱手していた手を解き顔をあげる。その瞬間、鎧をまとったたくましい肩が上下するほどに、彼は溜めていた息を吐き出した。


 皇帝とその妃に謁見して疲れているのは、娘の陵容ではなく彼自身だ。


 愚かさが顔に出ている皇帝と性悪が声に出ている皇后を見るたびに、この二人にいつまで頭を下げて仕えなければならないのかと彼は思う。


 五百年にわたる半氏の統治に間には、今の皇帝よりももっと愚かな皇帝もいたことだろう。そして自分のようにそのことに不満を持つ家臣もいたに違いない。


 また五百年の間には、西華国は他国とあまたの戦いも繰り返してきた。それは敵国の攻撃からの守りであったり、その逆に、歴代の皇帝たちの理不尽な欲望に突き動かされた侵略であったり。


 そのたびに蘆冨のような軍属の家臣と兵となった多くの民の血が流されてきた。




 十年前、北の国との戦争で蘆冨は幼い長男を失った。


 まだ戦場に出る年齢ではなかったが、初陣を勝利で飾ってやろうと思った親心があだとなった。『窮鼠、猫を嚙む』という言葉通りに、本陣への手痛い奇襲を受けた。


 北の国をひ弱な小国とあなどった将軍としての自分の戦略の甘さだったと誹謗されれば、その通りだと認めざるを得ない。しかし、あの子が今も生きておればと悔やまない日はない。


 蘆冨には何人もの男の子がいるが、あの子を超える逸材は後にも先にも生まれてくることはないだろう。あの時に死ななければ成人したあの子は、自分のたのもしい右腕となりいずれ趙氏のおさとなったに違いない。


 十年前、真白い髪をしたこの世のものとは思われぬほど美しい少女が北の国にいるという噂を聞いた皇帝が、その少女を我がものにしたいと思いついた。それが戦争の始まりだった。あまりにも身勝手で愚かな理由だ。


 しかし、暴君が圧政のかぎりを尽くそうとも臣下と民の血が流されようとも、けっして半氏の血脈が途絶えることはない。それどころか、宮殿の瑠璃瓦はますます複雑に重なり合って銀狼山脈の中腹に広がり、宮殿に君臨する半氏一族の衣装はきらびやかになり冠は黄金色に輝く。


 あの瑠璃瓦と黄金色の冠のために、我が子のそして多くの兵士の血が流されたのだと思うと、いまだに蘆冨ははらわたが煮えくり返るほどの怒りをおぼえる。


 西華国に伝わる興国の神話によると、この国の安泰と半氏の繁栄は、銀狼に身をやつした神との誓約なのだそうだ。だが、それは真実なのだろうか……。


 蘆冨の心の中の声は日増しに大きくなる。その胸の内を隠して禁軍の将軍として皇帝に仕えるから、彼はいつも底知れぬ疲れにとらわれるのだ。




 陵容が去ったあと、蘆冨は藍秀らんしゅうが抱える半氏の印がついた竹籠を睨みつけ、物思いにふけってしまった。その視線に耐えきれず、藍秀は竹籠を胸に引き寄せて抱えなおした。


 突然動いた竹籠に、蘆冨もまた自分の心がここにあらずの状態でであったことに気づいた。竹籠より逸らした視線を、ゆっくりと藍秀の顔へと移す。赤いくせ毛に囲まれた浅黒い肌の真ん中で、黒曜石のように輝く強い意思を秘めた二つの目とぶつかった。


――陵容お姉さまがくださった菓子の入ったこの竹籠。返せと言われても絶対に返すものか。たとえ相手がお父上さまであっても――


 黒い光を宿したその目はそう叫んでいた。

 あまりにも自分の心の中とかけ離れた娘の思い違いに彼は苦笑し、母親と同じ目の色だと思い出す。


――おれがあの女に惹かれたのは、砂漠の民の証だという髪と目の色のせいだ。生まれた赤子が母親と同じ髪と目の色をしていたので、屋敷から追い出すことができなくなった。しかしその後に生まれた蘆信は、草原の民の血が濃いおれに似てしまったが――


 険しかった父の表情がゆるんだ。竹籠を奪われることはないと知って藍秀も目に込めた力を抜く。父は薄く笑いを含んだ声で言った。


「陵容さまは、よほどおまえのことが気に入っているようだな」

「いえ、お父上ちちうえさま。わたしのようなものにまで、陵容お姉さまがお優しいのです」


 父の真意が見抜けず、彼女は慎重に言葉を選んで答える。しかし続いて父が発した言葉は、彼女にとっては意外なものだった。


「藍秀、おまえに大切な話がある。昼餉をすませたら、屋敷におれを訪ねて来い」

「蘆信も一緒に?」

「いや、おまえだけでよい」


 そして、藍秀を上から下へと見下ろして、彼は言葉を続けた。


「しかし、いくらなんでも、その恰好で来られても困るな。適当に見繕った着物を侍女に届けさせよう。ついでに、その髪も結ってもらうとよい。湯浴みして待っておれ」


 それだけを言うと、藍秀の返事を待つことなく彼はくるりと背をむけた。白規はくきと名乗った男も彼女に頭を下げ、再び白い影となって蘆冨に従う。


 あとに一人残された藍秀は身をすくめて立っていた。


 たとえ相手が父であっても、湯浴みについてまで指図されるのはあまりにも恥ずかしい。そしてそれをあの男にも聞かれたのだと思うと、のぼった血で顔がほてる。


 それは自分では律しがたい初めて経験する心と体の戸惑いだった。


 

                        <藍秀と蘆信>終わり


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