第11話 第三皇子正妃となる陵容 ≪2≫


「少々、言い過ぎたようにございます。申し訳ございません」

 蘆冨ろふが一歩下がって臣下の礼をとる。


 手を上げる仕草だけで、泣く子も黙ると恐れられる趙将軍に沈黙を命じることができる……。皇族となることで手に入れた力に、陵容りょうようは新しいいたずらを見つけた子どものような笑みを浮かべた。


 しかしすぐにその笑みを引っ込めると、目の前の光景に驚いて突っ立っているだけの藍秀らんしゅうに歩み寄り、その手をとる。そして矢継ぎ早に問いかけてきた。


「藍秀、変わりなく過ごしていましたか? 日々の暮らしに不自由はありませんか? 足りないものはありませんか?」


 姉の手は温かく柔らかい。それに比べて汚れてかさついている自分の手を恥ずかしく思い振りほどきたかったが、しっかりと握られているので藍秀は諦めて答えた。


「お姉さま、お久しぶりです」


 同じ父を持ちながら母が違うだけで、貧しい暮しを強いられている藍秀と蘆信に、趙家の中では、五歳年上の姉・陵容だけが優しかった。生まれ持った鷹揚さに加えて、皇子に嫁ぐと約束されて育った覚悟が、彼女を気高くそして誰にでも分け隔てなく優しくさせているに違いない。


 陵容さまのお召し物が汚れると顔をしかめる侍女たちを無視して、子どもの時からそうしていたように、ほんとうは藍秀は優しい姉に抱きつき甘えたかった。しかし、姉はもうすぐ皇族に嫁ぎ、雲上の人となる身だ。横にはいかめしい鎧姿の父もいる。


 取られた手を放して、深々と頭を垂れるべきかそれとも跪くべきかと躊躇する。だが、陵容はますます妹を引き寄せた。


「おまえたち姉弟の暮らしぶりが気にはなっていたのですが、毎日、わたくしもいろいろと……」


「お姉さまは、婚儀を控えていらっしゃいます大切なお体。わたしと弟なら、元気に暮らしておりますので、ご心配は無用です」


「それならばよいのですが……」

 藍秀の手を取ったまま、陵容は不思議そうにあたりを見回した。

「あら、蘆信はどうしました? 先ほどまで、声は聞こえていましたのに」


「あっ、蘆信は……。剣術の稽古をしていたのですが。稽古に身が入らずどこかに逃げてしまいました。すぐに呼び戻して、お姉さまにご挨拶させます」


「うふふ、おまえが謝ることはありません。あなたは蘆信の母親代わりとして、よく頑張っています。あの年頃の男の子は、誰しも御し難い生き物なのですよ」


 姉の優しい笑いにつられて藍秀も笑った時、退いていた趙将軍が一歩前に進んで口を挟んできた。


「藍秀、陵容さまに対して、親しく笑い合うは何ごとだ。おのれの立場をわきまえよ。陵容さまは、皇帝陛下と皇后さまに謁見されてのお帰りで、疲れていらっしゃる。お引止めしたのだが、どうしてもおまえたち姉弟の顔が見たいとおっしゃられるので、お連れしたのだ」


 その言葉に、姉の手を振りほどいて一歩下がり、彼女はうやうやしく揖礼する。


 ――そうだったのか。それで父上は重々しい黒い鎧に身をかため、お姉さまは美しく着飾っておられたのか――


 急に態度を変えてしまった妹を見て、陵容が将軍を睨む。いや、睨むふりをする。


「将軍、わたくしは疲れてなどおりません。そのような恐ろしい声色では、わたくしの可愛い妹が怖がるではありませんか」


「陵容さま、差し出がましいことをいたしました。お許しください」


 頭を深く下げて、再び、将軍はあっさりと引き下がった。

 その様子に、藍秀は目を丸くする。


 ――今日は、なんと驚くことばかりを目にするのだろう。朝夕に仰ぎ見る銀狼山脈中腹の広大な宮殿の瑠璃瓦の下では、宮中とか皇族とか宦官とか、日々の暮らしに追われるわたしには、想像もできない世界があるのだわ――


 陵容はもう一度優しく微笑んだ。


「でもいまの将軍の言葉で、ここに来た肝心の用事を思い出しました。皇帝陛下さまより珍しいお菓子をたくさん戴きました。それでおまえたちにも食べさせたいと思ったのです」


 そう言って振りかえると、「それを、藍秀に」と侍女をうながす。蓋つきの竹籠を大切そうに抱えた侍女の一人が進み出て、それを藍秀に渡した。


「頬が落ちそうな美味しいお菓子ですよ。あとで蘆信と一緒に食べなさいね」


「お姉さま、ありがとうございます」


「おまえの元気な顔が見られて、安心しました。でもこれ以上長居していると、将軍のご機嫌が悪くなりそうですね。わたくしは戻ることにします」


 そう言って、陵容は美しい着物の裾をひるがえした。その後ろに侍女たちも付き従う。彼女たちの後ろ姿が藍秀の視界から消え去ると同時に、あたりを彩っていた早春の花畑とよい香りもまた消え去った。


 夢から覚めた思いがした。

 頬をつねりたい確かめたいところだ。だが、両腕でしっかりと抱いている蓋つきの竹籠を見下ろして、夢ではなかったのだと藍秀は思う。


 傾いた門・崩れた石塀・みすぼらしい小屋に囲まれたなかに、再び、父と美しい顔立ちの若い宦官と自分の三人になってしまった。




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