第10話 第三皇子正妃となる陵容 ≪1≫
不思議な声音と同じく、抑制のきいた無駄のない身のこなしだ。
それがきびしい武術の鍛錬の賜物であることは、毎日、自己流の剣術で弟・蘆信の相手をしている藍秀にはわかる。その腰に
向き直った男の体つきは細くしなやかなで、体格のよい将軍と並んでも背の高さに遜色はない。
それにしても美しい顔立ちの男だった。
耳垂れのついた皮の帽子からのぞく漆黒の前髪と、男とは思えない白い肌。高い鼻梁は細くまっすぐで、くっきりと弧をえがく眉の下の目の色は灰色……、それとも明るい陽の下で見れば煙った空の色なのか。
趙家の腹違いの兄弟や従兄弟たちも、美しい母を持つそれぞれによい顔立ちした男たちばかりだった。だが、藍秀は彼らを美しいと思い見とれたことなど一度もない。
彼らの美しい顔の下には、常に
少年と言ってしまうには落ち着いた容姿と物腰で、しかし大人の男ではない。不思議な雰囲気を持つ男だ。
呆然と目の前の顔を見つめていると、表情がないと思われた男の薄く色のついた形のよい唇の端がかすかにあがった。
自分の不躾をおもしろがって笑ったのだと知って、藍秀の顔に血がのぼった。肌の色が浅黒くなければ、朝陽を受けた銀狼山脈の山肌のごとく、彼女の頬は茜色に染まっていたことだろう。
「彼の名は
父の蘆冨が言った。
「白規さまでございますか……?」
「奴隷宦官であるから、白規に姓はない。それにおまえの立場として、白規に敬称をつけることもない」
こともなげに蘆冨は言う。
男が再び両腕をあげて、微笑を浮かべた顔をその中に隠す。先ほどと同じ抑制のきいた甲高くよく通る声が、ここちよく藍秀の耳朶を打つ。
「藍秀お嬢さま、どうぞご遠慮なく、白規と呼び捨ててください」
奴隷宦官という言葉に衝撃を受けた藍秀は返す言葉が出てこない。
蘆冨は娘の戸惑いにはまったく興味がないようで、「藍秀、いくつになった?」と訊いてきた。その声に男の顔に見惚れて顔を赤らめたという失態に対する叱責は含まれていない。安堵して藍秀は答える。
「十五歳となりました」
「もうそのような歳となったのだな。月日の過ぎ去るのは早いものだ……」
そのあと少しの無言があったのは、昔々に情を交わした女を思いだしたのか。しかし続く問いはまったく予想外のものだった。
「藍秀、読み書きはできるのであろうな?」
着るものや食べるものなどの暮らしぶりにも、姉の
「はい、少しばかりは。お優しい陵容お姉さまのお計らいにございます」
「まあ、読み書きや礼儀作法は、これから学べばどうとでもなることだ」
「えっ?」
自分の読み書きや礼儀作法を口にする父の言葉の真意がわからず、藍秀は思わず聞き返す。
蘆冨が答えようと口を開きかけた時、彼らの後ろの傾いた門から、あざやかな色が溢れ出てきた。季節は木々の葉の緑が濃くなりつつある初夏だが、時を巻き戻して、再び早春の花が咲き乱れたかのようだ。あまつさえよい香りも満ちてくる。
数人の侍女を引き連れて、着飾った陵容が門をくぐりこちらへと来る。歩を進めながら、彼女は鈴を転がしたような涼やかな声で言った。
「将軍、ご用は終りましたか? もうこれ以上、塀の陰に身を潜めているなど、わたくしは嫌でございます」
「これはこれは、陵容さま。長くお待たせしてしまいました。どうか、お許しください」
蘆冨は陵容のために数歩下がって場所を空けると、軽く頭をさげた。
陵容は第三皇子の正妃となって嫁ぐことが決まっている。その挙式は三か月後だ。皇族となる娘に対して、すでに蘆冨は家臣としての礼を尽くしている。陵容も父上さまという言葉をあらためて、いまでは将軍とその官職名で父の蘆冨を呼ぶ。
「もしかして、将軍は、わたくしの可愛い妹を困らせているのではありませんか?」
少し怒ったような少し拗ねたような声で、陵容が蘆冨を問い詰めた。彼女が言葉を発するたびに、複雑に高く結い上げた豊かな黒髪に挿したいくつもの
「陵容さま、とんでもないお言葉にございます。藍秀と蘆信の剣術の稽古がおもしろく、ついつい見とれておりました」
「まあ、それは、わたくしも見たかったこと」
「陵容さまは、もうすぐ第三皇子妃となられるお方。怪我でもされたら大変でございます」
これ以上言い合ってもしかたがないと、笑いながら手を上げて陵容は蘆冨の口を封じた。
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