第9話 趙将軍と白規



「姉ちゃんなんか、嫌いだ、大嫌いだ!」


 手にしていた木刀を投げ出すと、蘆信ろしんはくるりと背中を向けた。今度は藍秀らんしゅうがあわてる。塀の上に仁王立ちしたまま、彼女は再び叫んだ。


「ま、まちなさい、蘆信! 今日は勉学堂の日でしょう」


 しかしその声はむなしく、脱兎のごとく駆けていく蘆信の背中をするりと滑り落ちた。


 まんまとしてやられたと思う。

 柳の枝でしかかたかに打たれながらも、間合いをはかっていたのは、藍秀ではなく蘆信だ。姉を塀の上にのぼらせて、彼は逃げる機会をねらっていた。


――やられたわ。けっして、弟はおろかものではないのだけど。剣術にも勉学にも、乗り気ではない。困った子……――


 今日は趙家の屋敷の勉学堂で講義のある日だ。宮中の守りを任された禁軍の将軍でもあり趙氏のおさでもある彼らの父・趙蘆冨ちょう・ろふは、子弟の教育にも熱心だ。邸宅の一郭に勉学堂なるものを建ててあまたの師を招き、その教育に金子を惜しまない。


 蘆信もその末席に、腹違いの兄弟や従兄弟たちと座ることを許されている。しかし、肝心の本人が学ぶことに身が入らず、つねに逃げることばかり考えている。


 まだ肉薄くひょろりと背が高い少年の後ろ姿を、藍秀は目で追った。


 白山羊の毛で織った薄い布で仕立てた、筒袖の短い丈の上衣と裾を絞ったズボンくつも山羊のなめした皮で縫ったも。西華国の男のこの季節の普通恰好だ。


 自分のものを節約してでも、蘆信の身なりには気をつけてやっていた。どこも擦り切れていないし、もちろん継ぎもあたっていない。


 しかし腹違いの兄や弟や従兄弟たちは、草原の遠く向こうにある緑豊かな国より取り寄せた絹の着物をまとい、玉石ぎょくせきかんざしを挿している。勉学堂で彼らの間に混じれば、見劣りすることは当然だ。本人は言わないが、そのことでからかわれたという噂は耳にしている。


「はあ……」


 大きなため息を一つ吐いて、藍秀は塀の上より身軽く飛び降りた。どうしたものかと、手に持った柳の枝を所在なくもてあそんでいると、ゆっくりと手を叩く音が聞こえてきた。


 パチ、パチ、パチ……、パチ、パチ……。


 崩れかけた土塀に、趙家のものが住む殿舎とはとてもいえないみすぼらしい小屋。それにふさわしく黒ずんで傾いた小さな門。その門を後ろにして、大仰な身振りで手を叩く一人の男が立っていた。


 誰であるかを確かめようとして、藍秀は目を細めた。


 銀狼山脈を背にしたその男は逆光の中に立っていたからだ。体格のよい中年の男。兜こそ被っていないが、身にまとっているのは黒く重々しい鎧だ。磨き込まれた飾り鋲が陽を受けて鈍く光っている。


 男が趙将軍であり自分の父であることがわかるのに時がかかった。実の父でありながら、その姿を見かけるのは年に数度。親子としてのまともな会話を交わしたこともない。ましてこのみすぼらしい住まいに父が足を踏み入れるのは、母が死んだ時以来のはずだ。


「お父上ちちうえさま……」


 慌てて柳の枝を捨てると地面にひざまずき、突き出して囲った両腕の中に藍秀は頭を垂れた。


「そのように、他人行儀にかしこまらなくてもよい。親子ではないか。立って、その顔をこの父によく見せてくれ」


 男のいまさらな言葉に、だが、藍秀は素直に従った。

 立ち上がり顔も上げると、満面に笑みを浮かべている父の顔が目の前にあった。その顔に、弟の蘆信の顔が重なる感覚が不思議だ。


「まだ小娘でありながら、見よう見まねの武術で、あそこまで蘆信を打ち負かせればたいしたものだ。さすが、おれが見込んだ女が生んだだけはある」


 機嫌のよい声で趙蘆冨ちょう・ろふは言い、そして振り返った。

 彼の陰から白い影が姿を現す。その白い影は揖礼したまま将軍の次の言葉を待っている。


白規はくき、おまえも見たであろう。藍秀をどう思うか、腹に隠すことなく言ってみよ」


「おそれながら申し上げます。藍秀さまには生まれついての武術の技量が備わっておられるように思われます」


 白い影と見えたのは、自分より少し年上の若い男だ。蘆信と同じように白山羊の毛で織った筒袖の上着と裾を縛ったズボンを穿いて、その上に胴衣の形をした皮鎧を重ね、耳垂れのついた皮の帽子を被っている。軽装の武具とこざっぱりした清潔感が、いつもの見慣れた兵士とはまた違う格好だ。


 頭を垂れたまま答える彼の声は、声変わりしていない蘆信のように甲高くよく通る。だが、抑制の利いたその響きは耳障りではない。


「そうか、おまえにもそう見えたか」


「はい、将軍さま。鍛錬を重ねてどのような腕前となるのか、これからが楽しみにございます」


 父の白い影となって存在を消したその姿といい、聞いたことのない声の響きといい、不思議な気配を漂わせた男だった。


 不躾だとは思いながらも、藍秀はその若い男から目が離せなくなった。




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