藍秀と蘆信

≪1≫


 大きく飛び跳ねて蘆信ろしんの後ろに回った藍秀らんしゅうは、手にしていた柳のしなやかな枝で彼の背中をしたたかに打った。


 ピシッ!


 柳の枝といえども、まともに打たれれば痛い。だが、弟ではあるが男である蘆信に、彼女は手加減はしない。


「この柳の枝が本物の刀だったら、いまのおまえの体は肩から真っ二つだ。とっくに死んでいる」

 叫んで、ぱっと敏捷に跳ねて間合いをとる。


 十五歳の姉・藍秀とっては十歳の弟・蘆信を相手にする剣術の稽古は、遊びではない。しかし、抗議する蘆信の声には涙が混じっている。


「姉ちゃん、痛いじゃないか! それに後ろから打つなんて卑怯だ」

「愚かもの! 命をかけた剣術に、卑怯もまっとうもあるものか」


 狙いを定めずやみくもに振りまわす蘆信の木刀を、右に左にと跳ねながらかわす。


 ピシッ!


 団子髷だんごまげに結った弟の頭を、今度は正面から手加減して打つ。そして再び藍秀は軽々と跳ぶと、肩の高さほどある塀の上に立った。


 白い粘土に小石を混ぜ込んで築いた土の塀が、彼女の踏ん張った足元でぱらぱらと崩れ落ちた。長年の雨風にさらされてもろくなっている。


 二人の世話を焼いている梠爺ろ・じいが、「お嬢さま、女だてらに剣術の真似ごとなど、おやめください」とこぼしながら、以前は崩れた塀をまめに積みなおしていた。しかしいまは曲がってきた腰のせいか呆けてきた頭のせいか、見て見ぬふりだ。


 塀の上で腰に手を当て胸をそらして、額に赤いミミズ腫れをつくり悔しさと痛さに歪んだ弟の顔を、彼女は見下ろした。




 趙藍秀ちょう・らんしゅうの肌の色は浅黒く、その顔の彫りは深い。


 くぼんだ眼窩がんかに突き出た頬骨。

 猛禽類もうきんるいくちばしを思わせる少し曲がった鼻梁びりょう

 黒曜石のきらめきに似た真っ黒な瞳。


 しかし何よりも目立つのはその赤い髪の色。そのうえに波打つくせ毛なので、結うのは諦めて一つにくくって背中に垂らしている。


 神話となって言い伝えられている興国の歴史によると、五百年前にこの西華国を起こしたものは、藍秀のような容貌を持つ南の砂漠から逃れてきた若者二十人であったらしい。彼らは、初代皇帝の父である半氏のおさに率いられていた。


 しかし五百年の間に、北の民族や草原の民族と血は混じり合った。いまでは藍秀のような容貌のほうが珍しい。どのような因果が廻ったのか、長い時の流れをさかのぼって彼女の容貌は先祖還りしていた。


 また、その身にまとうものは、もとは宮中に参内する時に着ても見劣りない美しいものだった。貧しい暮しを強いられている腹違いの妹を哀れに思い、優しい心根を持つ姉の陵容りょうようから贈られたものだ。


 しかし藍秀には美しく着飾って出かける場所がない。


 生きていくための雑用に励む貧しい日々の中で、もったいないが長い袖を切って普段着としている。今では汚れ擦り切れて見る影もない。衿を右前に深く重ねて、荒縄を帯として締めている。擦り切れて千切れてしまえば、いくらきらびやかでも帯としては使えない。


 よい身分の女たちはこの着物の下に襞のあるスカートを穿く。しかしそのようなものは動くのに邪魔なだけなので、苦手な針仕事を頑張って、藍秀は蘆信の布団に縫い直した。


 それで、擦り切れた丈の短い裾からは脹脛ふくらはぎが覗き、その下は傷だらけの素足だ。


 汚れた着物に、いかつい容貌と男勝りな言動。しかし、すらりと伸びやかな足は、彼女が十五歳の少女であることを隠しきれていなかった。




 藍秀と蘆信の父・趙蘆富ちょう・ろふは、西華国皇帝の常に傍らに仕えあまたの兵を従えて宮殿を守る禁軍の将軍だ。彼とその妻たちと腹違いの兄弟姉妹が住む幾棟もの邸宅が、塀の上に立つ藍秀の後ろの木立越しに広がっている。


 だが残念ながら、藍秀と蘆信の母親の身分が卑しかった。まだ若く血気盛んだったころの父が抱いた、趙家で働く端女はしための一人だ。


 そういう関係になった端女はしためとその結果生まれてしまった子どもは、しばらく遊んで暮らせるほどの金子きんすを与えられて、趙氏の屋敷から暇をだされる。その金子きんすを元手に商売を始めて、母子ともどもそこそこに暮らしていくものもあり、文字通り数年を遊び暮らして路頭に迷うものもありだ。


 ただ、金子きんすが尽きたからといって、暇を出された趙氏の屋敷に戻って来て泣きつくものは一人もいない。そんなことをすれば、母子ともども斬り殺されその遺骸は山に捨てられるか、奴隷として他国に売り飛ばされる運命だ。


 そのような中にあって、藍秀と蘆信の姉弟の母親だけはなぜか屋敷に止めおかれた。趙氏の広大な屋敷の北の隅に、使用人が寝起きするような小さく粗末な小屋を与えられて、そこで暮らすことを許された。


 藍秀が生まれたあと、五歳離れて蘆信が生まれたので、身分は卑しいながらも、母には父を惹きつけるものがあったのだろう。しかし産後の肥立ちが悪く、彼らの母は二人の子どもを残して死んだ。


 



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