第7話 銀狼から託された500年後の使命



「お怖れながら、お伺いいたします。銀狼さまに奥方さまは?」


 言ってしまってすぐに、馴れ馴れしい問いを悔やんだ。しかし目の前の銀狼は気にしていないようだ。その体を敷物の上に横たわらせてくつろぐと、揃えて伸ばした前足の上に凛々りりしい頭をあずけて答えた。


「私に妻はいない。いずれ妻にしたいと願った少女はいたが」


「そのお方は、さぞや、お美しいのでございましょう?」


「そうだな、大人になればどのような美しい女となるのか。だが、美しいのはその姿だけではない。その心映こころばえもまた美しい。完旦に降り注ぐ夏の陽射しのような少女だ。時に煌めき時に陰り、その表情の愛らしさは至宝ともいえる」


「まるで目に見えるようでございます」


 銀狼はおもむろに首をもたげると、石の壁に穴をあけただけの小さな窓を見上げた。窓からは、真夏の青い空の下に、いただきに雪を抱いた銀狼山脈の連なりが見える。まるで切り取ったような景色だ。それが気に入ってこの場所に家を建て、この壁をくりぬいた。


 銀狼がつぶやく。


「少女は横笛を吹くのだが、この音色の妙なることは比べるものがない。しかし、私が妻にと願ったばかりに、少女を不幸にしてしまった」


 なぜにそのようなことにと思ったが、さすがにそれを問うのは不謹慎だと思い止まる。尋ねたところで答えが返ってくることはないだろうが。


 金茶色の目を亀禮きらいの顔の上に戻した銀狼は言葉を続けた。


「私の昔話ばかりでは、おもしろくないだろう。まあ、おまえも座るがよいぞ。そして、この三十年の間に、この完旦で何があったか、聞かせてくれ」


「ありがたいご所望にはございますが、わたくしは元来の口下手でございます。わたくしの話は、銀狼さまを退屈させるだけでございましょう」


 砂漠の民の族長の地位を約束されたものとして、彼は生まれた。そのために若い時から無口な性質だった。気やすく誰彼に自分の想いを語ることは、相手の命をひいては自分の命を危なくすることでしかなかった。

 

 三十年前に、内戦の果てに国を追われたのも、何ごとも打ち明けられると信じていた友が、厳しい拷問の末に亀禮の野心を漏らしてしまったからだ。


「天上界にあっては、私もおまえと同じ立場だった。だからこそ、今日は、お互いに忌憚きたんなく喋り合い楽しもうではないか。井戸端で洗濯の手を休めるかしましい女たちのように」




※ ※ ※


 銀狼を退屈させてはならないと、気がつけば、手振り身振りをともなって彼はこの三十年の出来事を熱く語っていた。


 それにしても、自分の想いを語るということが、これほどに楽しいことであったとは。そして話の途中に突然、自分の長話に銀狼がつきあう理由に彼は気づいた。


『おまえの肉は土に還ることなく、おまえの骨もまたちりになって風に舞うこともない』


 その意味がわかったのだ。


 ――このお方より与えられた使命を果たすために、自分は気の遠くなるような寿命を得る。しかしそれは孤独に満ちたものだ。そのことを憐れんで銀狼さまは、最後にと、このように楽しい時を設けてくださった――


 次から次と彼の口から溢れる言葉は明るく楽しみに満ちたものであるのに、双眸からは涙がこぼれ頬を濡らした。亀禮の長話に聞き入っていた銀狼が再び首をもたげて小窓を見上げた時、すでに陽は銀狼山脈の頂にかかっていた。気持ちのよい夏の夕暮れ時だ。


「銀狼さまが聞き上手であられるために、ついつい、わたくしのくだらぬ長話をお聞かせしてしまいました」


「いや、楽しい時間であった」


 銀狼は立ち上がり、優雅にその肢体を伸ばして体を震わせた。美しい毛並みがふわりと逆立ち、それは周囲に銀色の光をまき散らし立ち昇らせた。やがてその光は人の姿へと形を変えていく。


 驚いて立ち上がった亀禮の後ろで椅子が倒れた。

 銀色の光に包まれた狼の体の中から現れた若者は、彼が想像する神々しさをはるかに超えていた。


 白地に銀糸で刺繍した袖も裾もゆったりとした長衣を、彼は身にまとっていた。艶のある黒髪をおくれ毛の一本もなく頭頂に結い上げ、銀色に輝くかんざしでまとめている。


 聡明さを表す一文字の眉の下の目の色だけは、狼の時と同じ金茶色だ。


 ただその美しい顔が憂いを含んでいるように見えたのは、妻に望んだという少女の話を聞かされたためか。


「覚悟はできているか?」


 神々しい人の姿のものは言い、突き出した両腕の中に頭を深く鎮めて亀禮もまたうやうやしく答えた。


「もちろんにございます。我が民をお助けいただいた三十年前より、この身とこの命を惜しいと思ったことはございません。いかようなことでもまっとういたす所存であれば、どうぞ、ご命じください」


「今より五百年後、この地に美しい少女が現れる。そのものは訳あって中華大陸をさまよう身なれば、おまえはその少女を庇護し、そしていずれはそのものの望みが叶うように心を砕いて欲しい」


「そのお方のお心に沿うことをお約束いたします。しかし、ただ美しいとおっしゃられても……。わたくしには女人の美醜にうといところがございますれば」


 その言葉に、人の姿をしたものは若い男らしく笑った。


「心配することはない。髪は真白く笛を携えていて、言葉の不自由な少女だ。逢えば、すぐにわかる」


「承知いたしました」


 亀禮はもう一度深く頭を下げ、銀狼は最後に言った。


「では、私とおまえの誓約の証として、我が像を石に刻んで祀るとよいだろう。私はその像の中でしばらく眠りにつく。その間の、完旦の地とおまえの末裔の半氏の安泰は必ずや約束する。人にとって五百年は悠久にも思える時の流れだが、私にはしばしの午睡ごすいでしかない」




                        <銀狼山脈>終わり

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