第6話 久しぶりの銀狼と半亀禮


 村の広場では、棒切れを持った村人たちが輪になって口々に叫んでいる。

 彼らをかき分けて半亀禮はん・きらいは前に進み出た。輪の中では彼の息子がなたをかまえて、するどい牙を見せつけて唸る大きな狼と対峙していた。


 三十年経てば、十代の若者だった息子も、五人の子どもと七人の孫を持つ壮健な体をしたよい大人だ。村と村人に危険が及ぶとわかれば、いまのように我が身を盾として飛び出す。


 その勇敢な行動力にそろそろ次期の長の座をとのぞむ声が日々にたかまっているのは承知している。率先して畑でくわを振るう自分の姿に威厳がないことは確かだ。


 しかしまだその時ではないと思ってしまうのは、子の未熟さを心配する親心か。それとも頑なになりつつある老い心のせいか。

 小さく嘆息すると、亀禮は息子の背中にむかって叫んだ。


「我が息子ながらなんという愚か者よ! よもや、銀狼さまを見忘れたとでも言うのか!」


 その言葉に驚いてなたを取り落とした息子が一歩後ずさった。


 驚愕に目を見開いて銀狼をまじまじと見つめる姿を横目で見ながら、土で汚れている着物の裾を払う。これ以上はないというほどに腰を折って、彼は深々と揖礼した。


「銀狼さま、我が息子の無礼をお許しください。いつ完旦かんたんにお戻りくださるのかと、この三十年を、一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました」


 逆立てていた銀色の毛並みを鎮めて、銀狼はゆっくりと首をまわして取り囲んでいるものたちを見まわした。再び、正面に向き直った金茶色の目には、先ほどとは違い、柔和な光が浮かんでいる。


 銀狼は三十年前と同じように人の言葉で言った。


「亀禮よ、久しぶりだな。見渡したところでは、完旦は、なかなかに住みよい村となっているようだ」


「すべては銀狼さまのご加護の賜物にございます」


 世辞を言うなとばかりに、銀狼が口角をあげて薄く笑った。

 表情はまさしく人に近い。人の言葉を喋る狼ではなく、狼の姿を借りた人を超える存在、それはたぶん神なのだろう。


「亀禮よ、三十年も経てば、おまえも老けたな。髪に白いものが混じっているぞ」


「見ての通りでございます。まだ、腰は曲がってはおりませんが。銀狼さまは三十年前とまったくお変わりのない姿に見受けられます」


「世辞は必要ない。しかしなんとまあ、人とは、はやく老いる生き物だな」


「物見高い村人たちが聞き耳を立てておりますれば、銀狼さま、どうか我が家にお越しくださいませ。家などとは言えぬ、狭苦しい小屋ではありますが」


 言葉通りの一つの石造りの簡素な小屋を指し示し、再び、彼は頭を下げた。




※ ※ ※


 ――さて、椅子を勧めたものかどうか……。茶を出したほうがよいのか、それとも山羊の乳で作った酒のほうを好まれるのか――


 狼は仮の姿とわかっていても、いやそれだからこそ、こうしてあらためて相対峙すると戸惑いは尽きない。


 季節は陽射しが真上から降り注ぐ夏至を迎えたばかり。万年雪を抱いた山々の中腹にあるとはいえ、体を動かせば汗が噴く。しかし、小さな窓が一つしかない石の壁に囲まれた部屋に一歩入れば、すぐに体は冷えた。


 老いた一人暮らしの男の部屋を、目を細めた銀狼は物珍しそうに眺めている。立てた尻尾が揺れているのが、彼の好奇心を表していた。


「椅子も茶も酒もいらぬ」

 亀禮の心を読んだ銀狼はそう言い、そして言葉を続けた。

「まったく、飾りの一つもない寒々とした小屋だな」


「長年の男の一人暮らしでございますれば」

「おまえは新しく妻を娶らなかったのか」

「さようにございます。妻は完旦かんたんであり子どもは村人であると思い、この齢まで生きてきました」


 村人たちの目を気にすることもないせいか、銀狼は愉快そうに声をたてて笑った。

「こじゃれたことを言うではないか」

 

 その声に銀狼の姿を借りているものは若い男の神であろうと、亀禮は思った。

 その落ち着きからして曾孫たちのような十代ではなく、かといって四十歳も半ばとなった息子ほどに世間ずれしているという感じでもない。


 三十年昔には、多くの仲間を失った悲しみと安住の地を得た喜びで、そのようなことを考える余裕もなかった。


 目の前の銀狼に息子や孫を重ねたことで、ついつい彼の口は軽くなる。



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