第5話 30年が過ぎて……


 村となり町となりいずれは国の都ともなるこの地を完旦かんたんと名づけて、銀狼が去ってより、半年が過ぎた。


 畑に蒔いた穀物の種は青々と芽吹き、穂を伸ばし花を咲かせ、実りの季節になるとその重さに頭を垂れた。


 白山羊は刈っても刈ってもすぐに長い毛を伸ばし、女たちは紡いだ糸で器用に布を織る。それは暖かい着物となり石造りの家の敷物となった。

 

 仔山羊たち三匹も,雌山羊の乳を飲んで丸々と育っている。


 初めての収穫を迎える畑に、おさ半亀禮はん・きらいは皆を集めた。


「穀物も山羊も完旦かんたんに満ち始めた。我々もまた増えねばならない。今いるものたちで、それぞれ夫となり妻となろう。そして子を産み育てるのだ。三日後の朝、婚姻の義を執り行う。その日までに、それぞれの伴侶を定めよ」


 しかしながら、彼自身は妻を娶ることをかたくなに拒んだ。

「私にはすでに完旦という名の妻がいて、おまえたちという子どもがいる」





※ ※ ※


 三日後の昇り始めた美しい朝陽のもと。


 東に向かって設けた祭壇に、それぞれの伴侶を決めた若者二十人たちは、収穫したばかりの穀物と一匹の仔山羊をほふって捧げた。


 そのあと、この地に来て初めての火をおこした。焚き付けとなるものは、大木の落ち葉に枯れ枝、毎朝食べる果実の皮を干して乾かしたもの、収穫を終えた穀物の枯れた茎や葉や根。


 その火で、祭壇より下げた仔山羊の肉を入れた穀物の粥を煮る。


 平らな石の皿に盛った粥も仔山羊の肉も、二十人という数に分ければそれはほんの一口でしかない。だが、彼らにとっては久しぶりに食べる果実以外の食事だ。


 ゆっくりと味わって腹に流し込んだ肉の旨味をじゅうぶんに吸った穀物の粥は、彼らの五臓六腑に染みわたった。


 果実だけを口にする日々で忘れていた荒々しい活力が、体の中を熱い血とともに駆けめぐる。ほんの一瞬ではあったが、皆の体が猛々しい喜びにかすかに震えた。しかし、それが長く忘れていた〈人の欲〉の芽生えだとは、まだだれも知る由もない。半亀禮さえも……。


 儀式を終えて、二十人はそれぞれの伴侶と初めての契りを結ぶために去っていく。


 そのなかには亀禮の十六歳になったばかりの息子もいた。


 彼の新妻は三歳年上の賢くもあり器量もよい女だ。互いに好き合っているらしい雰囲気は今までにも見てとれていたので、きっとよい夫婦となるだろう。そしてそれは子々孫々と続く半氏の繁栄の源となるに違いない。


 新妻と手をとりあって走り去っていく息子の背中を見送って、一抹の寂しさをおぼえながらも、亀禮は祭壇を片づけ始める。


 黙々と手は動き続けたが、頭の中では銀狼の不思議な言葉がこだましていた。


 ――おまえの肉は土に還ることなく、おまえの骨もまたちりとなって風に舞うこともない――


 その言葉の真の意味を知るのに、この日から三十年の月日が過ぎ去るのを、彼は待たなければならなかった。




※ ※ ※


「大変だ! 狼が現れたぞ!」

「大きな雄狼だ!」

「子どもたちを守れ! 家畜を小屋に戻せ!」


 住居のある方向から聞こえてきた叫び声に、畑を耕していた亀禮は振り下ろしかけたくわを持つ手を止めた。その土の色は黒々として、作物を豊かに育てるよく肥えた畑だ。


 不思議な実のなる大木が一本生えていただけのこの地に住み始めて三十年。


 その木のまわりには、いまでは村といってもよいほどに家が立ち並んでいる。

 小石を石灰で固めた壁に、大木の実の種から育てた若木の皮で拭いた屋根。

 家々にはすでに子どもたちとまたその子どもたちとで満ちていた。


 山羊に驢馬ろばに豚に鶏にと、家畜も増えた。

 女たちが織った布を男たちが担いで何日もかけて山を下り、草原で暮らす遊牧の民より物々交換で手に入れた家畜だ。


 時には家畜だけではなく、定住の地を求めてさまよっている異民族のはぐれ人さえも受け入れた。


 畑も広がり、倉には次の収穫までの穀物を蓄えている。いまでは大木より落ちてくる果実に頼ることもない。大木もそれを知ってか、最近ではほとんど実を落とさなくなった。


――狼が出たと? はるか山裾の草原にはいるが、ここまで登ってくるとは。この村の家畜の匂いを嗅ぎつけたのか?――


 騒がしい声に顔をあげた彼の髪は、もとの赤毛の中に白いものが混じっている。それは苦労の末に白いものが増えたというよりは、三十年経てば年相応のものだ。しかし、体力と気力はまだ若いものに負けてはいないとの自負はある。


 突然、鼓動が高鳴った。

――まさか……、そのようなことが……――


 にわかにくわを放り出した彼は仲間とともに声のする方に向かって走った。




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