第87話 赤銅の竜と黒い槍

 万年筆のインクのような濃紺の血が、ポタリと床に落ちた。

 

 傷口はあっという間にふさがったが、魔王はしばらく自分の血を珍しそうにじーっと見つめていた。


「魔王様! もう一回来ますよっ」


 グウの声と同時に、八角のダブの巨大な右腕が大きくしなった。

 先端には、ギラリと赤銅色に光るやり

 猛スピードで顔に向かってくるその槍の穂先を、魔王はビッと指で掴んで止めた。


「!?」

 今度はダブが驚いた顔をする番だった。

 だが、そのまま力で押し切ろうと、ぐっと腕に力を込める。


 魔王もまた指先に力を集中し、手の甲、そして顔にビキッと血管が浮き出た。

「ほう。これだけ力を込めても壊れんとは、大した強度だな」

 彼はそう言って、それを勢いよく自分の側に引き寄せた。


「うおっ!?」


 大柄なダブの体がグンッと浮き上がり、そのまま壁に叩きつけられる。


 ドオンッ!!

 と、物凄ものすごい音を立てて壁が砕け、ドオンッ、ドンッ、ドンッ、と三つ隣の部屋まで吹っ飛んでいく音が聞こえた。


(建物が崩壊しなきゃいいけど……)

 グウが建物の心配をしていると――


 ドゴォオン!!


 彼の背後の壁が破壊され、金属質の塊がいくつも飛び出してきた。


 グウは慌てて、ややカッコ悪い横跳びで回避した。

(あっぶねえ。俺、避難していいかな? それは、さすがに護衛として職務放棄しすぎ?)


「痛えじゃねえかこの野郎」


 粉塵ふんじんの中から、ダブが姿を現した。

 頭に生えた八つの角から、ぽろぽろとコンクリートの破片が落ちる。


 彼の腕はさらに異様な形にメタモルフォーゼしていた。

 ひじから下が、銅板のうろこに覆われた首長竜になっている。

 それも、頭が八つある異形の竜に。


 痛いと言いながらも、ダブ自身にはまったくダメージが見られず、ピンピンしていた。


「ずいぶん頑丈がんじょうだな」

 魔王が言った。


「まあな。生半可なまはんかな攻撃じゃ、俺には傷一つ付けられないぜ。本気で来いよ、魔王様」

 ダブはあおるようにニヤッと金歯を見せた。


 魔王はぴくりと片方だけ口角を上げた。かすかに笑ったらしい。

「魔界大百科」

 そうつぶやくと、手のひらから黒い文字があふれ出て、魔法陣のように床に広がった。


「竜の章、マグマの火竜ガルファーダ」


 魔法陣が描かれた床が、熱した鉄のように赤く光り出した。


「ちょ、魔王様! お待ちください!」


 グウが焦って止める。

 その技は一度見たことがあった。

 数秒であたりが地獄みたいになるエグい魔法だ。絶対に屋内で使っちゃダメなやつ。


「ここでマグマはちょっと……」

(下の階のみんなが全滅しちゃう。あと、俺の逃げ場ない)


 いいところを邪魔された魔王は、一瞬めちゃくちゃ恐い顔でギッとグウのほうをにらんだ。が、いちおう魔法は中断してくれたようで、地面の赤い光が消えていった。


 ふう、とグウは息をついた。

(こえー。なんか昨日からピリピリしてんだよなあ……)


 どうも今の魔王は情緒不安定なように思える。

 機嫌がいいのか、悪いのか、よくわからない。


(まあでも、どちらかというと、俺の仕事ってこっちだよな。護衛っていうより、見張り)


 魔王は右手をスッと横にのばすと、改めてこう唱えた。

「魔界大百科・武器の章、黒典魔槍こくてんまそう


 床に広がった魔法陣がメリッと盛り上がり、大きな黒いやりが出現した。

 優美で刺々とげとげしい装飾に覆われた、どこか禍々まがまがしいシルエット。

 刃の部分が大きく、薙刀なぎなたに近い形状をしている。


 魔王がその槍を掴むやいなや、

 ダブも技を繰り出すべく、竜の生えた腕を大きくしならせた。


八つ首竜の牙エイト・ドラゴン・ファング!!」


 牙をき出しにした八頭の竜が、八方から同時に魔王に襲い掛かる。

 まさに逃げ場なし、という状況だったが――


 魔王はめずらしく、ニイッと歯を見せて笑った。


 背丈よりも大きな槍を両手で握ると、ブウンッと一振り。

 ものすごい突風が巻き起こった。


 ――ように見えたが、実際には一振りではなく、一瞬のうちに八つの竜の首を的確に刈り取って、さらにダブの右腕を肩の付け根から根こそぎ斬り落としたのだった。


「ぐあっ!?」

 ダブがうめいてよろめく。


 次の瞬間、彼の両足が斬り飛ばされた。


「うぎっ……ぐ……」


 床に崩れ落ちる――


 ドスッ。ドン!!


 容赦のない連撃。黒い槍がダブの腹部を貫き、そのまま壁に突き刺さった。

 槍を握った魔王はダブと目が合うと、冷たい笑みを浮かべた。

「ほら、斬れたぞ?」


 魔王の魔力を凝集したこの槍の前では、いかに強靭なダブの肉体も、生身の人間と変わらないようだ。

 彼もこんなにスパスパ斬られるのは初めての経験だろう。


 勝負あった。


 だが、魔王はなぜか、そこで動きを止めた。


「魔王様? どうしたんですか?」

(再生する前に、一気にトドメ刺したほうがよくね?)


「こいつ、再生しない」


「え?」


 魔王の言う通り、たしかにダブの手足は再生する気配がなく、さらに、腹部の傷もふさがることなく、ただドクドクと血が流れ続けていた。たぶん、このまま放っておいても、いずれ死ぬだろう。

 並みの魔族ならともかく、化物ぞろいのいにしえの魔族で、これほど回復力がない者は珍しい。


「その顔の傷とか、眼帯とか、ファッションかと思ったけど、違うんだな。頑丈なぶん、回復力がないのか」


 魔王が言うと、ダブはフッと鼻で笑った。


「その通りだ。俺の体は再生しない。失ったら終わりだ。笑わせるだろ、古の魔族なのによ。そのへんの雑魚のほうが、まだ回復力があるってもんだ。やってらんねえよ、まったく」

 ダブは壁に寄りかかるようにして、はあ、と息を吐いた。

「だが、まあいいさ……歴代最強と名高い魔王デメに殺されたんなら、俺の面子めんつも保たれるってもんよ」


(面子?)

 グウはかすかに眉をひそめた。

(今まさに味方が全滅しようとしてて、どんどん子分が死んでるってのに、自分の面子の心配かよ)


 そんな感情が顔に出ていたのか、ダブがジロッとこちらを見た。


「お前、覚えてるぞ……ベリの手下だっただろ」


「え?」

 グウは驚いて目を丸くした。

「会ったことありましたっけ? てっきり初対面かと」

(いや、初対面だろ。こんな派手な奴、会ったら絶対忘れないはずだ)


「……俺のこと……何か聞いてるか?」


「いえ」とグウは首を振った。「ベリ将軍の知り合い? とくに何も聞いてませんけど……」


「……そうか。だったら知り合いじゃねえ。俺が一方的に知ってるだけだ」

 ダブは遠くを見るような目で言った。


 グウは首をかしげた。

「よくわかんない人だな。アンタ最初から死ぬつもりだったでしょ」


 この男には、終始どこか余裕があった。

 最初、それは自信からくる余裕だと思ったが、そうではなかった。

 それは「諦め」だった。こいつは最初から勝つことを諦めていたんだ。


「勝てないってわかってたなら、手下共にもそう言ってやればよかったじゃん。みんなアンタが勝つと信じて、戦って死んでいったぞ。いったい何がしたかったんだよ、アンタ」


 グウの問いかけに、ダブはフッと乾いた笑いを漏らした。


「何がしたかった……か」

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