第60話 魔界大百科
うるさいインターフォンが鳴り止んで、五分は経った。
ギルティはおそるおそる玄関のドアを開けてみた。
「魔王様ー? どうなりましたー?」
どういうわけか、玄関の外には魔王もバジルもいなかった。
「あれ? どこ行ったんだろう?」
二階の廊下から周囲を見回してみるが、やはり二人の姿はなく、かわりに駐車場に妙な物体を発見した。
小さな丸いテントのような何か。
サーカスのテントに似ているが、赤と紫のシマ模様が何だか毒々しい。
(何アレ……)
ギルティは階段を降り、正面から謎の物体を観察してみた。
やはり、それはテントだった。
雨傘を広げたくらいの直径しかなく、高さも1メートル30センチ程度。だが、ちゃんとアーチ状の入り口があって、赤いベルベットのカーテンがかかっている。
(もしや、魔王様はこの中に……?)
カーテンをめくって中をのぞいてみると、カラフルに塗装された細いトンネルのような通路が続いており、3メートルほど先でカーブしていた。完全に物理法則を無視した空間。明らかに魔法が使われている。
「魔王様ー? いるんですかー?」
返事はなかった。
だが、耳をすますと、奥のほうから音楽と、それに混じってかすかに人の声が聞こえてくる。
(これ、入っても大丈夫かな……?)
彼女は少し悩んだ末に、一度セイラの家に引き返し、黒いビジネスバッグを持って戻ってきた。
バッグから取り出したのは、先端に人面鳥がついた金色の
ギルティの『デメント』であるこの杖も、ゼルゼ隊員のコロコロと同じで、持ち運びの際は小さくできる。
(よし……!!)
と、彼女は気合を入れて、カーテンをくぐった。
テントの中は明るく、色鮮やかだった。壁にも天井にもびっしりと絵が描かれているが、よく見ると
通路は思ったより深く、入り組んでいた。階段を上がったり、下がったり。まるで迷路のようだ。
「魔王様ぁ~? どこですか~?」
ギルティは不安になってきた。
ただ、音楽と話声はだんだん近くなっている気がする。
むにゅ。
(ん?)
階段を上ろうと、一段目に足をのせたつもりだったが、なぜか柔らかい。
不思議に思って下を見ると、足の下に巨大な緑色のカエルがいた。
「ギャアアアアア!!」
ギルティは叫んで走り出した。
「カエル無理いいいい~!!」
ゲコゲコと背後で鳴き声がする。しかも一匹じゃない。合唱だ。走りながら振り返ると、自分の頭より大きなカエルが数十匹、壁や天井にはりついていた。
「いぃいやあぁあぁ!!」
ギルティは泣きながら全力疾走した。
ろくに道も確認せずに逃げ惑っていると、ドンッと、曲がり角で誰かにぶつかった。
「いだぁっ」
「ギルティ?」
顔を上げると、ぶつかった相手はグウだった。
「グウ隊長!? なぜここに?」
「なぜって、戻ってきたら駐車場に謎のテントがあったから……てか、このテント何? 何があった?」
「それが……」
ギルティはグウが出て行ってからの経緯を説明した。
「すみません、私が目を離したばかりに……」
「いや、魔王様のご命令なら仕方がない。とりあえず二人を探そう。バジルが生きてるといいけど」
二人は音楽が聞こえるほうに向かって歩いた。
ギルティはグウの一歩後ろをビクビクしながら進む。次にまたカエルと遭遇したらと思うと、気が気でない。
「これって空間魔法なんでしょうか?」
彼女は会話で気を紛らわすことにした。
「どうだろう。たぶん、アレじゃない? いつもの魔界大百科」
「あの……魔界大百科って何なんですか?」
「わからん」
グウは即答した。
「実際にそういう本があるのかもしれないし、ないのかもしれない」
「私あんな魔法、初めて見ました。あれは召喚魔法なんでしょうか? それとも具現化魔法? あの『三つ目のモグ』なる生き物は実在するんでしょうか?」
「さあ」とグウは首をひねった。「たぶん、そういう理論とかはないと思う」
「え?」
ギルティは目を丸くした。
「いや、魔法である以上、何かしらの魔法理論に基づいた技のはずでは?」
「うーん、ヒト魔法ならそうだろうけど」
グウはゆるい調子で答えながら頭をかいた。
「魔族の魔法って、そもそも感覚的なもんだしなぁ。理論も方法論も、人間界からの逆輸入っていうか」
たしかに彼の言うとおり、自身の肉体に魔力を宿す魔族は、長々とした呪文詠唱や魔法陣などの手続きを必要とせず、直感的・感覚的に魔法を使うことができる。
そのぶん単純な技――肉体変化や、魔力の放出などに偏りがちで、魔法とも呼べないような、ただの魔力の行使である場合も多い。
「しかも魔王様は
――自分ができると思ったことは、必ずできる。この世界はもともと、そういう仕組みなんだ。魔法なんて言葉ができる前から、ずっと。
以前、魔王がセイラに語った言葉には、まさにそういう感覚が表れている。
「もしかすると魔王様には、魔法を使ってるっていう意識すらないかもしれないな」
グウはつぶやいた。
学校で魔法理論をもとに魔法を教わったギルティには、にわかに理解しがたい話だった。
(でも、同じ古の魔族でも、シレオン伯爵はすごく理論的に魔法を捉えているようだったけど……)
古の魔族の中にも、理論派と感覚派がいるのかしら、などと考え事をしながら歩いていると、うっかりグウの背中にぶつかってしまった。というのも、彼が急に立ち止まったのである。
「わぷっ。どうしたんですか」
キャンドル型のウォールランプに照らされた、曲がり角のすみ。
グウは目を見開いて、その一点をじっと見つめていた。
「ひいっ! カエル!!」
「カエル?」
「はい……あそこの明かりの下……!」
ギルティはプルプルしながら指さした。
「カエルが見えるのか? 小さな女の子じゃなくて?」
「女の子? いえ、カエルですけど……」
「人によって見えるものが違うってことか」
彼はゆっくり歩いていって、腰くらいの高さの何もない空間に手をのばした。
「……ああ、幻だ」
それはシンプルに幻だった。ただ見えるだけで、危険はないようだ。
いくぞ、と彼は言った。
はい、と返事はしたものの、ギルティの歩みは重かった。
幻だとわかっていても苦手なモノは苦手なのだ。
「おえ……」
歯を食いしばり、梅干しのようにクシャッと顔をしかめながら歩く。
あまりにヒドい顔だったのか、見かねたグウが手を差し伸べた。
「怖かったら目つむって歩けば? ほら、引っぱってやるよ」
「へっ」
ドクンと心臓が脈打って、一瞬で顔が熱くなった。
すぐに手を取れずにいると、
「あ、嫌だったら服とかでもいいですけど……」
と、彼は目をそらしながら、気まずそうに言った。
「いえ、嫌だなんて! で、でででは、お言葉に甘えて」
ギルティはドキドキしながら、グウの手を握った。
目をつむり、手を引かれるままに歩く。
(べつに緊張することじゃないわ。前にもつないだことあるし。まあ、あのときは酔っ払ってたけど……ああ、また思い出しちゃった……)
目を閉じているせいか、よけいにドキドキする自分の鼓動を意識してしまう。
しかし、そんなドキドキをかき消すくらい、後ろからカエルの鳴き声がゲコゲコ聞こえてくる。しかも、また合唱。何かを訴えかけるような大合唱。
(うわぁ、いっぱいいる。やめて。私に何を求めているの、カエルたちよ……ていうか、なんでよりにもよってカエルなの? もしかして、自分が怖いものが見えるとか? でも隊長は女の子が見えるっていうし……)
「忘れてないよ」
「え? 何か言いました?」
グウの声がしたが、カエルのせいでよく聞こえなかった。
「いや、なんでもない」
ギャアアアアアア!!
突然、頭上から男の叫び声が響いて、ギルティは思わず目を開けた。
「な、何!?」
「あそこだ!」
グウが右前方の階段を指さした。
階段の先にはドアがあって、少し開いた隙間から明かりが漏れている。
二人は急いで階段を駆け上がり、ドアを開けて部屋に飛び込んだ。
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