第48話 暴走と制御

 頭がふわふわしていた。


 どうやって酒場を出たのか、覚えてない。

 気づけば温かい背中におんぶされていて、優しい声が泣きじゃくる自分をなだめてくれた。子供に戻ったような気分だった。


 どうやらアルコールが海馬に達しているようで、記憶が断片的にしか記録されていない。

 いつの間にか自分のベッドにいた。

 そういえば、着いたぞと言われたような気もする。


 全身がだるくて、何もしたくなくて、だけど何となく寂しいような、人肌が恋しいような、そんな気分だった。

 いつもより感情的で、いろんなことがドラマティックに感じる。


 大きな手に抱き起こされて、よく見るとグウだった。

 心配そうな目でこちらを見つめている。


 少し切れ長で、ちょっと眠そうで、それでいて笑うとすごく優しくなるその目が、ギルティは好きだった。


 いつも近くにいるけど、触れることはできない。

 そんな人が、今はこの指が届く距離にいる。


 ふわふわの脳内で幸福物質が放出された。

 どうやら自分は嬉しいようだ。


 だが、次の瞬間――


「俺を見るな」


 突然の拒絶の言葉。


「俺のことは忘れてくれ」


 喜びが一気に悲しみへと変わる。

 目から涙があふれた。


「じゃあな……!」


「待って!!」


 思わず彼の手を掴んで引き止める。


「縁切るなんて言わないで!」


「いや、言ってないけど……」


 何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。

 よく覚えていないが、たしかにベタベタくっついたり、甘えたりした気がする。


「調子こいてすみませんでした。ずびっ」


「へ?」


「違うんですっ。今ちょっと脳の指揮系統に乱れが……抑圧されたパトスが……」


「は、はい?」


「潜在意識の暴走なんです。暴徒が司令部を占拠してるんですっ」


 グウはおびえたような顔をした。


「だから縁を切らないでっ」


 思わず強く手を引っぱってしまう。


「ちょ、力つよっ!」


 力加減も狂っていた。


 ドサッ。


 バランスを崩し、ベッドの上に片手をつくグウ。

 思いがけず床ドンのような姿勢になってしまう。


 起き上がろうにも、ギルティが手を握りしめたままだ。

 困惑し切った顔でギルティを見下ろす。


「え、えーと……どうした? 今度は何で泣いてるの?」


「わかりません」


「俺のせい?」


「わからない。自分でも何が悲しいのかわからない……」


 ギルティの頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 脳内の司令部はまだ暴徒に占拠されたままだ。

 アルコールにあおられて暴走状態の自分の分身たちが、好き勝手な発言を繰り返している。


(もしかしてグウ隊長のこと好きなのー?)とミーハーなギルティがはしゃぐ。

(アルコールで脳が麻痺しているだけです)と真面目なギルティが答える。


(好きって何?)(知らない。恋したことないもん)

(恋したーい!)(恋すればいいじゃん)

(誰に?)(隊長でいいじゃん)(隊長はダメよ)(何で?)

(だって、隊長はベリ様のものじゃない)

(手を出したら大変なことになるわよ)

(好きになっちゃダメな人なの)


「この感情が何なのかわからないっ」

 ギルティは涙声で言った。


「どうしたらいいんだ……」

 グウは途方に暮れたような顔をした。

「どうしてほしいの?」


 どうしたいんだろう……

 ギルティの脳内指令室がまた盛り上がる。


(キスしてもらえ!)

(なんでやねん!)

(だって同い年の子はみんなしてるし)

(好きなの?)(どっちでもいいよ)

(魔族なんだから欲望に従えばいいの)

 隊長は人のもの……なら今この時間だけでも特別になりたい……

(床ドンされたら次はキスでしょー)

(本能のままに生きればいいのよ)

(いけいけー)


「キスしたい」


「え」


 口に出したとたん、心臓が早鐘のように鳴り出した。

 一気に顔が熱くなる。


 だが、グウは顔色ひとつ変えず、落ち着き払って自分を見つめている。



 ――ように見えたが、それはギルティからそう見えているだけだった。


 グウはフリーズしていた。


(今なんて?)


 彼もまた激しく混乱した。

 頭の中に吹き出しが大量発生し、思考が渋滞する。


(今キスしたいって言った?)

(え、俺と? 俺とですか?)

(流れが見えん。何が起きてる? 誰か教えて?)

(えー、いったん落ち着こう。一つ一つ確認してこう)

(まず、この場でキスは絶対ダメですよね。それはわかります、さすがに)

(てか、それどういう感情? その瞳は何? 100人の男がいたら100人が勘違いしそうな、その潤んだ瞳は何?)

(まさかと思うけど、いや、まさかだよな)

(それとも単なる興味?)(酔っ払いの気まぐれ?)(キス魔の覚醒?)

(念のため確認しとこう)


「そ、それはどういう……とりあえず誰かとキスしたい的な感じですか?」


「…………はい」


(ああ、ですよね。すみません。よかった勘違いしなくて)


「やめといたほうがいいって。そういうのは好きな人としたほうがいいから、うん」

 思いのほか薄っぺらいセリフを吐いてしまう。

 我ながらペラペラだ。

「とりあえず、手放そうか。ね?」


「好きがわからないんです……好きって何ですか? 教えてください、隊長」


「難しすぎる……」

 哲学の授業かよ。


「キスしたら何かデータが得られる気がするんです」


「実験台?」


 そして、相変わらず手を握ったまま放してくれないギルティ。

 思いつめたような苦しげな眼差しを向けてくる。


 髪と同じ、薄い栗色の睫毛まつげ

 透き通った丸い目が涙に濡れて、キラキラ光っている。

 何も塗っていない、桜の花のような淡いピンク色の唇に、否応なしに目がいってしまう。


(可愛い顔……)


 あまりそういう観点で見ないようにしていた。

 部下だし。大事な後継ぎだし。


 グウの手を握るギルティの手が、小刻みに震えている。


 何にそんなに怯えているのか。

 どこまでも繊細な生き物だ。同じ魔族とは思えない。

 でも、そこが良さだから、この子を大事にしていこうと思っていたけど……


 自由なほうの手で彼女のほほにふれる。

 鋭い爪で傷つけないように、そっと。


 ビクッと彼女の肩が震えた。

 驚いたような目をして、掴んでいたグウの手をふわっと放す。


 解放された手で、彼女の目尻にたまった涙をぬぐう。


「た、たいちょ――」

 動く唇を親指で優しく止めて、指の腹でその柔らかい表面をなぞる。

 目を逸らそうとする小さな顔を両手で捕まえると、彼女は痛みをこらえるみたいにぎゅっと目を閉じた。


「せがんどいて怖がるなよ」

 

 両手で挟んだ彼女の顔に、ゆっくりと顔を近づける。

 そして、桜色の唇――ではなく、ぎゅっと閉じられたまぶたにそっと口づけをした。


「おやすみ。もう寝なさい」


 尖った耳の先まで赤くなったギルティが、小さな声で返事をした。

「はい。おやすみなさい……」


 そのまま立ち上がり、振り返らずに部屋を出る。

 バタンとドアを閉めると、そのドアに背中を預けた。


 ずるずるずるー。ぺたん。

 ドアの前に座り込んだ彼は、思わず心臓のあたりをおさえる。


(危なかったああああ)


 一瞬、持ってかれそうになった。

 何かこう大きな潮流に飲まれそうになった。


(試さないでくれ……俺はそんなに出来た上司じゃないんだ)

 グウは両手で顔を覆った。


 明日どうやって顔を合わそう?



 * * *



 翌日。

 めずらしく遅めに出勤したギルティは、部屋に入ってくるなり、すごい勢いでグウに頭を下げてきた。


「昨日は大変ご迷惑をおかけしました!!」


「あ、いえ。こちらこそ……」

 気まずそうに目をらすグウ。


「副隊長、昨日のこと覚えてるの?」

 ぐったりと机に顔をのせたフェアリー隊員がたずねた。見るからに二日酔いだ。


「ぜ、全然。何も覚えてないんです」

 そう答えた彼女の笑顔は、微妙にひきつっていた。


「副隊長、昨日はごちそうさ――ベボッ」「俺たちも二次会で記憶飛ばしたんで何も覚えてません」

 余計なことを言おうとするゼルゼ隊員を、ビーズ隊員が殴りとばした。


「そうなんですね。よかったあ。じゃあ私コーヒー入れてこよーっと」


 彼女はカクカクしたぎこちない動きで執務室を後にした。


 そして、給湯室で一人になると、両手で頬をおさえ、

「くきゅうううう」

 と、謎の奇声を発しながら、その場に座り込んだ。


 ギルティは覚えていた。

 全部ではないが、かなり覚えていた。


 記憶が曖昧あいまいなのは、自分の部屋に戻るまでの間だけで、酒場でスカートを脱いだことも、部屋でグウと交わした会話も、バッチリ記憶している。


(ぬあああああっ!! 消えたい!!)


 なんだったのだ、昨日の自分は!!

 アルコールのせいで異常にドラマティックな気分になっていた。

 朝起きて冷静になり、恥ずかしさでもだえ死ぬかと思った。


「ううぅ……!! なんで全部覚えているのよ、私! せめて記憶をなくしたかった!」


 もうまともにグウの顔を見られない。

 覚えていない設定にでもしないと、とても声をかけられそうになかった。

(だって、最後のあの……ひあああああっ)

 思い出すだけで顔から火が出そうだ。


「どうしたの? 副隊長」

「ひあっ」


 声に驚いて振り返ると、黒髪ロングヘアに猫耳が生えた美貌の女装男子がいた。

 ドリス隊員だ。


「ドリスさん! 遠征イベントから戻られたんですか」


「今朝戻ったのよん」


「あの、一つ聞いてもいいですか……」

 ギルティはわらにもすがる思いで助言を求めた。

「耐えがたいほど恥ずかしい記憶って、どう向き合えばいいんでしょう!?」


 ドリスは首をかしげた。頭の耳もぺこっと曲がる。

「そりゃ、飲んで忘れるしかないんじゃない?」


「飲んで忘れる……」


(でもそうしたら、またお酒で失敗を……あ、それもまた飲んで忘れればいいのか……)


 破滅のスパイラル。

 ギルティは一瞬、ダメな大人への階段をのぼりかけたが、冷静になって踏みとどまった。





《Case6 END》

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