第30話 契約書は難しい
グウは謎の手から受け取った契約書に目を通そうとしたが、びっしり文字が書かれた人間界の契約書は、一目で「うげっ」となった。
(なんか法律の条文みたいだな。人間って、仕事に就くだけで、いちいちこんな小難しい書類に目を通さなきゃダメなのか?)
「そこに書いてあるとおり、たしかに違約金の条項はあるけど、社長が言った内容とは、少し違ってるんだよねぇ」
シレオン伯爵が運転しながら言った。
「あの人は、『三年間の契約期間の途中で辞める場合は、違約金を払うことになっている』って言ってたけど、実際の契約書には、『デビュー後、一年以内に辞めた場合は、違約金を支払うこと』って書いてるんだ。セイラはチェリクラとしてすでに二年活動してるから、対象外なんだよね。しかも、初期費用って書いてあるだけで、どこにも50万とは書いてない」
「なるほど」と、グウはうなずいた。
(どこに書いてあるのかわからんが、きっとそう書いてるんだろう)
「感謝してよ~。わざわざ秘書に不法侵入してもらって取ってきたんだから」
ダッシュボードの上の手(秘書)が、伯爵の言葉に合わせてピースサインをした。
たぶんに簡単に侵入できただろうな、とグウは思った。
「で、何でわかったの? セイラが違約金払わなくていいって」
シレオン伯爵が横目でグウを見た。
「ああ」と、グウは契約書に視線を落とした。「あのとき――社長が違約金の話を持ち出したときですけど、事務所のスタッフらしき人が『え?』って感じの顔で、社長のほうを見たんですよね。それでまぁ、もしかしたら、ホントはそんな約束ないのかなって」
「ふーん……相変わらず細かいとこ見てるねぇ」
伯爵は感心したような、呆れたような顔で言った。
「ていうかさぁ、べつにこんな面倒くさいことしなくても、50万くらい僕が払ってあげるのに。ていうか、デメが払ってやればいいじゃない!」
シレオン伯爵が不満そうな目で、バックミラー越しに魔王を見ると、後部座席の魔王は無言でグウのほうを見た。
「たしかに金を出すのが手っ取り早いんですが、はたしてあのセイラちゃんが受け取るかどうか」
グウは魔王にかわって説明する。
「彼女にとっては大金のはずですからね。会ったばかりの我々が、そんな額をポンと出すのは不自然だし。それに、自分一人だけが、人から貰った金で辞めるってのも、心苦しいでしょうから」
「ん? どういうこと?」と、伯爵が首をひねった。
「セイラちゃんは三人グループでしょう? ほかの二人がどうしたいのかは知りませんが、セイラちゃんだけ事務所を辞めれば、最悪グループは解散だ。それだと、きっと彼女も後味が悪いと思うんですよね。でも、ここで違約金の支払い義務がないことを社長に認めさせることができれば、残りの二人も自由に事務所を辞めていいってことになる。全員で新しい事務所を探すのもよし、いずれにせよ、グループとしての選択の幅が広がるかなって」
「は~っ! グウったら、そんなことまで気にかけてるの? だから忙しいんだよ、君は!」
グウは図星を指されて、うっ、と思った。
「もっとクールに仕事しないと、そのうち過労死するよ? 魔族のくせに過労死したら笑い者だよアハハハハハッ」
「俺のことはいいんですよ!」
グウは
「とりあえず、段取りとしては、俺がセイラちゃんの親戚って設定で、俺と伯爵で事務所側と話をつけるってことでいいですか? もちろん、彼女の了解を得られればの話ですが。それでいいですか、魔王様?」
と、後部座席を振り返った。
「かまわん。お前に任せる」
魔王は短く答えた。
「俺は寝る。着いたら起こせ」
「えー、デメちゃん寝ちゃうのぉ? つまんなーい」
ベリ将軍が魔王の服をつかんで揺すったが、魔王は頑なに目を閉じて無視し続けた。
そうしているうちに、やがて後部座席から二人分の寝息が聞こえてきた。
「やれやれ。誰のためにやってると思ってるんだか」
シレオン伯爵がため息をついた。
「ちょっと甘やかしすぎじゃないかい、グウ? ていうか、お前が話をつけるなら、わざわざデメを連れてくる必要あった? ぶっちゃけ、いないほうがスムーズに事が運ぶと思うけど」
伯爵は車線を変更して前の車を追い越した。車は快調に高速道路を走っていた。
「だからって、この件で仲間外れにしたら、あとから絶対怒りますよ。それはそれで面倒くさいんですよね」
グウはぼやきながら、目だけでチラッと後ろを振り返った。
「まあ、魔王様も昔に比べたら、たいぶ温厚になったし。セイラちゃんのためなら、少しくらい大人しくできるしょう」
「う~ん、そうだといいけどねえ」
「伯爵こそ、なんだかんだ言って、やけに魔王様に協力的じゃないですか。昔ガチで殺し合ってた相手なのに」
「なんだい? また僕が何か企んでるとでも言いたいのかい?」
伯爵は心外だという顔をした。
「安心しなよ。この期に及んで、まだデメに喧嘩売ろうなんて気概はないさ。コイツの怖さは、この僕が一番よく知ってるからね」
元魔王はそう言って、バックミラー越しに後部座席を見た。その目には、ラウル・ミラー氏のものではない、鋭利な赤い光が宿っていた。
「お前も勘違いしないほうがいいよ、グウ。いくら温厚になったとはいえ、コイツが史上最恐の化物であることに変わりはない。つい数百年前まで深海で
バックミラーに映る魔王は、ベリ将軍に寄りかかられて、無防備な顔でスヤスヤと眠っていた。
「ずいぶんとセイラにご執心のようだが、それも一時的なものだろう。ようはお気に入りのゲームと同じさ。あくまでお気に入りであって、恋愛感情じゃない。まあ、デメじゃなくても、そもそも魔族にそんな感情は存在しないがね」
伯爵は薄い唇に笑みを浮かべた。
「ええ。わかってますよ。『魔族には他者に対する愛情はない』でしょ。あるのは肉欲と多少の好みだけで、恋愛も結婚も、所詮は人間の真似事。あなたが500年前に唱えた学説は、今でも魔界の哲学・心理学において、主流な考え方ですからね」
グウは正面の景色を眺めながら言った。
「俺たちは人間とは違う。それだけは、俺も肝に銘じてますよ」
フロントガラスの向こうに、都会のビル群の影が見えてきた。
無数の巨大ブロックで構成された、直線的な街並み。
何度見ても見慣れない、異世界みたいな奇妙な景色だ。
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