憧れの先輩が「前世では天使だったの」と告白してきた時の私の心情を答えよ

よなが

本編

 輪っかと翼はなかった。


 ないですと私がきっぱり言うと「前はあったの」と先輩は返した。今のは、与太話に付き合うつもりはないという意味も含まれている。

 梅雨入り宣言がなされた翌日、雨降りの弓道場から私たちふたりは傘を差して一緒に駅へと向かっているところだった。土曜日の部活帰りで、正午過ぎ。


「ふーん、これっぽっちも信じていないんだ。唯美ゆみちゃん、私の言うことは何でも信じてくれると思ったのに」


 そんなわけない。あるとしても信じたい気持ちであって、現実と照らし合わせてみて無理そうであれば信じない。


「でもさぁ。知ってのとおり、この北条小夜ほうじょうさよは何の根拠もなしに憶測で物を言う人間ではないのだよ」


 雨中で、お互いに傘を差しているからか、先輩はいつもより少し声を張っている。


「冗談なら毎日のように言っているじゃないですか」

「可愛い後輩ちゃんの前でだけだよ?」

「……嘘つき」

「えー? 唯美ちゃんが、弓道部の可愛い後輩であることは正真正銘、れっきとした事実だと思うけどなー。でしょ?」

「そ、そこじゃなくて。軽い冗談なら、たとえば他の先輩方と部活の前や後に話しているときにだって」

「でも私が一番自然に振る舞えるのは、唯美ちゃん相手だよ」


 しれっと。雨音を裂いて。私は顔を見られないよう傘を傾けた。

 そこは冗談めかして言ってくださいよ。

 

 大和撫子を絵に描いたような風貌、誰もが認める黒髪美人の小夜先輩にそんなの生真面目に言われたら誰だって照れてしまう。先輩自身は大和撫子ってのは褒め言葉として受け取らないみたいで「和服が着崩れしない体型をしていますねってことなのかな」などと以前、勝手に不貞腐れていた。

 性格は飄々としていて、さっぱりとした人柄だと評されるのも耳にする。なるほど、奥ゆかしいとは言えない。

 けれど弓道場では寡黙なのを部員なら全員が知っている。もっと積極的に後輩の指導をしてやれと顧問から頼まれることもあるぐらい。思うに三年生の部員数が少なく、頼りない人たちばかりなのがいけない。そんなこと、口が裂けても言えないが。春に入部して二カ月、やっと弓を引き始めた私としては、ここまで退部せずに基礎練習に打ち込み続けたのは先輩がいてくれたからだ。言葉はいらなかった。その姿を見ているだけで、意欲が湧き上がる。そんな憧れの人。

 

 話を見た目に戻すと、小夜先輩のシュッとしたスタイルが好きだ。素敵だって心から思う。私より数センチ高いその背丈。背中に惹かれたのは先輩が初めてだった。

 大人の男の人の広い背中でもないし、小さな女の子の背中でもない。言わずもがな先輩だけの背中。それが特別に映った。他とはっきり違うように。

 普段から背筋がいいけれど、足踏みから残心までの所作に何度見蕩れてしまったことか。弓を構えて矢を放つ、その前後を含めた先輩の一連の動作。綺麗と一言で表すのが忍びない。「私なんかまだまだだよ」と先輩は謙遜するし、たしかにうちは強豪校でもなければ先輩個人でもそこまでの成績を残しているわけではない。

 

 そうであってもなお、私にとっては一番だった。

 その一番ってのは小夜先輩が言う一番とは違う。それを理解すると傷つく。独りで、傷ついてしまう。それが最近の私。

 梅雨が明けるのが早いか、私の気持ちが晴れ晴れするのが早いか。きっと前者なのだろうなって半ば諦めている。前世がなんだろうと私にとって小夜先輩は天使ですよなんて冗談さえ言えないのだ。


「で、根拠や証拠ってのがあるんですか。小夜先輩が前世は天使だったって」

「実はあるんだよね」


 私は先輩を見やった。先輩も私を見つめている。ぶつかる視線。傘が距離を強いるのがもどかしい。にやりとする先輩。

 でも、それは冗談というより得意げなふう。したり顔ってやつで、たとえば先週、部活帰りに小走りで向かったケーキ屋さんで一日数量限定のチーズケーキの最後の一個を無事に買えた時の先輩、より正確には「半分こしよっか?」と私に言ってくれた時の表情そっくりだった。


「愛の矢が使えるようになったんだ」

「はい?」

「愛だよ。前世の記憶が甦った特典なのかな、それともまだ覚醒途中なのかも。とりあえず昨日、愛の矢が使えるようになったんだよー」

「…………」

「唯美ちゃん、そんな冷たい眼差しもできるんだね」


 誰のせいなのだ。私は肩をすくめる。そして溜息まじりに訊ねた。


「その愛の矢ってのは、どんな効果なんです?」

「射止めた相手はしばらく私のことが大好きになっちゃうの」

「はぁ」

「いやぁ、私も最初は信じられなかったよ? でもね、昨夜は弟と愛犬、それに今朝になって近所のおじいさん、それから、電車で偶然会った別の高校の友達に試したらさぁ、効き目あったんだよね」

「はいはい」

「やっぱり見せないと信じないかー」


 うんうんと肯いている小夜先輩だった。

 どうしたのだろう、いつもの冗談と違って長くしつこい。二週間前に、先輩のクラスで終礼が長引いて部活に遅れてきた日があって、その帰り道に「実は弓道場に来る途中で迷子のトムソンガゼルに出逢ってさー」と話してきた時は「は?」と一蹴しただけですぐに話題を切り替えたのに。


 駅に着いたので私と小夜先輩は傘を畳む。

 先輩が不意に私にぴたっと近づいて「ねぇ、唯美ちゃん、唯美ちゃん」と囁くものだから私の心臓は宙返りする。なんだ、なんだ。


「あの子で試してみるね。愛の矢。それできっと信じるよ」


 そう言って小夜先輩がそれとなく目で示したのは、駅構内の支柱に寄りかかっている中高生らしき女の子だった。私服である。大学生にしては顔があどけないし、化粧っ気も皆無だから、ひょっとすると長身の小学生かもしれない。土曜日であるし、誰か友達と待ち合わせをしている雰囲気だった。


「え、まだ言うんですか。だいたい、弓も矢も今持っていないじゃないですか」


 うちの部では基本、道具はすべて弓道場に置きっぱなしだ。体験入部生用の貸し出せるものを除けば各々で購入したものではある。大会等で別の弓道場に持ち運ぶ以外は手入れも弓道場で行っていた。


「だいじょーぶ。愛は心で射るのだよ、後輩ちゃん」


 そう言うと小夜先輩は私に傘をあずけ、バッグを床に下ろす。それからあたりをきょろきょろと見まわす。田舎の駅だ、休日であっても人でひしめき合っていることなどない。そうして先輩は私以外の視線がないのを確認して、姿勢を作った。

 そう、射法に則った動きをし始めたのだ。


 私がそんな小夜先輩を止められずに黙してしまったのは当然だった。なぜなら制服姿であろうと、先輩の立ち居振る舞いは美しかったから。流れるような迷いのない洗練されたそれに目が釘点けとなった。

 その見えない矢が向かう先にいる女の子のことを真剣に考えはしなかった。当たり前だ、先輩の前世が天使で、その記憶が甦って、愛の矢を習得したなんて出鱈目な話、信じる者がどこにいる?


 見えもしなければ音もなく。小夜先輩はその女の子を射止めた。

 

 残心を終えた先輩に、その子が駆け寄ってきたのだ。数秒前までは私たち二人の存在を意識していなかったに違いないのに、ただの背景であったはずなのに。

 びっくりした。もしかしてその子は先輩の従妹か何かで打ち合わせをしていたドッキリなのではないかと、私は瞬時に現実的なつじつま合わせを行った。

 だが、なんてことだ。その子は私のことがまるで視界にないかのように先輩の目の前まで来ると「あ、あのっ!」と恥じらいとどこか昂ぶりのある声色で切り出したのだった。先輩から妄想を聞かされていたことで、先入観があったとはいえ、しかし確かにあたかも恋する少女の表情だった。ひゃあ。

 その子は「今、お話してもよろしいですか」とさらに言う。もう話しているじゃん。体、もじもじさせてんじゃないよ、小娘が!


「ごめんねー。今、忙しいから、またね」


 小夜先輩がひらひらと手を振る。


「そんな! ああっ! せめて連絡先だけでも教えてくださりませんか! こ、こんなのどうかしていると思うかもしれませんが、えっと、ひ、一目惚れなんです!」


 どうかしている。私はその子ではなく小夜先輩を睨んだ。だって、その子は本当にまったく私のことを気に掛けないんだもの。すぐ隣に、そうだよ、先輩の隣にいるってのに。いや、それよりも、なんだこの状況。これでは本当に……愛の矢ってのが的となった彼女にあたったみたいではないか。 


「いやぁ、ほんとごめんねー。もうちょっとだからね」


 後半は私をちらりと見て口にした先輩だった。


「あのっ、それなら思い出をくださいませんか。あたしのここに貴女の痕を残してほしいんです!」


 ませた少女は上目づかいになって彼女自身の唇を指差したかと思いきや、目を閉じた。私は思わず「はぁ!?」と口にしていた。小夜先輩も驚いたらしく「えっ、あ、これはまずい」と狼狽えた。ぐいっと近づく少女。あああぁっ! なにやっているのよ! さっさと離れなさいよ、といよいよ私が割り込もうとしたそのときだった。


「お願いします――――って、あれ?」


 ぱちっと目を開いた少女は首をかしげる。半歩下がって、先輩とそれから私を見やる。また首をかしげてから、しだいに顔を真っ赤にして「し、失礼しました!」とどこかへ駆けていった。


「ふぅ。これ、朝より効果強まっているのかな。うん? 待てよ。もしかすると射法の丁寧さによって効果の度合いが決まるかもねー」

「待てよ、じゃないですよ! なんなんですか今の!?」


 胸をなでおろしておどける先輩に私は詰め寄る。「わわっ」と先輩はわざとらしく言って、距離をとる。それから「だから言ったじゃん」とはにかんだ。


「弟に命中させたら全然貸してくれない漫画を貸してくれたぐらいだったんだけど。電車であったケチでがさつな友達も、お菓子くれるだけだったし」

「……ちなみに、犬と近所のおじいさんは?」

「我が家の愛犬・与一は、普段お父さんやお母さんには尻尾振っているくせして私にはかまってくれないんだ。でも、中ったらキャンキャンって鳴いてじゃれてきた。あ、おじいさんはそうはならなかったよ」

「当たり前です!」

「そのおじいさん、いつも無愛想でさ、挨拶を五回に一回しか返さないんだけどね、笑顔で返してくれたよ。写真撮っておけばよかったかな」

「撮らなくていいです!」


 そんなわけで私は小夜先輩の話を信じることとなった。前世がどうのこうのよりも、先輩が今、そんな超常的な能力を持っているのが問題だ。一種の催眠術であるのだから、いくらでも悪用できるし。


「えー? そんな悪用なんてしないって。それにさぁ。さっきも言ったとおり、実際の射法八節を丁寧にやってこそ、きちんと効果が出るんだって思う。そうなると所構わずはできないでしょ? 不審人物じゃん」

「今だってそんなばっちりしなくてよかったのに。もしも狙ったのが大人の男性だったら、あの短い時間でも何されていたかわかりませんよ」


 誰か、私の知らない男の人に先輩が強引にキスを迫られるなんて、そんなの見たくない。知っている人だって、どんなイケメンだって嫌なのに。


「あー、犯罪者に仕立て上げてしまうのはまずいね、かなり」

「小夜先輩の身に危険が及ぶのが何よりいけません!」

「でもさ、しかたなかったんだよね。可愛いくて大切な後輩にはさぁ、いつも最高の射る姿ってのを見てもらいたくて」

 

 その長い黒髪をさらりと手櫛で払い、先輩が言ってのける。弓道場を含む校内では常に束ねている先輩が私の前で髪を下ろすのは帰り道だけだった。


「なっ!? そ、そんなので誤魔化されませんから」

「そっか。ねぇ、どうしよっか。せっかくの能力だし、善行に使えないかな」

「え?」


 閃いた、というふうに先輩がぴんっと右の人差し指を立てて微笑む。


「これさぁ、どうにかして愛情の向く対象を変えられないかなー。そうしたら、ほら、この矢で次々にカップル誕生させられるって思わない?」

「……」

「唯美ちゃん?」

「ダメですよ。人の気持ちをそんなふうに弄ぶのは」

「へ? ちがうって。なりふりかまわずにカップルにするつもりはないよ。勇気が出せない子に勇気を与えるって、そんな感じ」

「それは……でも、先輩からその矢が放たれている以上、対象を変えるのは無理っぽくないですか」

「むむむ、一理あるね」


 眉間に皺を寄せる先輩もまた様になっていた。って、そうじゃなくて私としてはいたずらにこんなとんでも能力を使わせてたまるか、である。


「小夜先輩、私と約束してください。もうその能力は使わないって」

「――――唯美ちゃんだったら我慢できる?」


 先輩が急に意地悪い調子で口にした。けれどその面持ちは冗談とは対極。


「私だったら?」

「うん。もし唯美ちゃんに振り向かせたい誰かがいて、それである日、こんな矢を放てるようになったらって。どう?」

「どうって……」


 そうなって、射るとしたら相手はあなたですよ、ってそんなの言えない。言えるわけない。真剣に考えてみる。今起こっている事態はありがちな空想や仮定と異なり、先輩にとってはリアルなもので、だから私としても真面目に答えを出さないといけない。そうしなければ、この先輩はハーレムを築いてしまうかもしれない!


「いるの?」

「いえ、使いません。なかったことにします。私はそんなズルはしません。これが私の答えですっ……!」


 先輩は「ちがうよ」と呟いた。それは私の虚をついた。え、ちがうって?


「弓矢を『射る』かじゃなくて、好きな人が存在するかどうかって。唯美ちゃん、今さ、すっごくマジな表情していた。誰かのことを具体的に想っているのが顔に出ていた。ねぇ、どうなの?」


 私は返答に窮する。そんなの今まで聞いてこなかった。少なくとも私に振ってこなかった。私たちの帰り道に、そういう話は出てこなくて、甘いのはカスタードシュークリームで充分、苦いのは無し。同級生の男の子たちに何度か告白されているらしい先輩。それを、色恋なんて興味ないって雰囲気で全部断っているらしい先輩。そんなふうに先輩の恋愛模様を人から伝え聞くだけの私。


「な、なんで先輩、そんな真顔なんですか。私が誰がどう想っていようといいじゃないですか」

 

 叶わぬ恋心を抱いていたって悪じゃない。叶わないと諦めていたって罪じゃない。


「私は我慢できないかも」

「え――――?」

「振り向かせたい相手がいるんだよね、こう見えてさ。そのためだったら使っちゃうかも。その心を射止めたいって本気で思っているから。だからさ、唯美ちゃんの『答え』を受け入れられない……かも。ごめんね」

「そう、なんですね」

「うん」


 ぐらつく感覚がした。足元がぐらりと。膝が震えた。

 小夜先輩に想い人がいる。それを直接聞けたのは、幸せなのかな。だって誰かから耳にしたのなら、確かめたくても上手に確かめられる自信がないから。


 気まずい空気が流れた。なんだこれって逃げ出したくなった。でも、そうしなくたって、私と先輩は乗る電車が違うから改札を抜けさえすればそれでもう今日は会わなくて済むのだった。これまでずっとその瞬間に寂しさを感じていたのに、今日は安堵があった。なんて、大嘘を自分についてみたってしかたがないでしょ。安堵するわけないじゃん。私は帰りの電車で揺られながら涙をこらえた。泣いてやるもんかって必死だった。

 

 小夜先輩は別れ際に言い添えていた。独り言みたいに。でも聞こえた。先輩の声にいつも耳を澄ましているんだから。「このままだと叶いそうにない恋なんだよね」って、そう言っていた。

 誰? 先輩が好きな人。叶いそうにない恋? じゃあ、もしかして芸能人? 

 ううん、校内にいるもう彼女持ちのモテ男っていう線もある。先輩は略奪愛を嫌がりそうだから。けれどあんな能力に目覚めたら? 奪えてしまう。一時的であっても。既成事実を作ることができたら、それでおしまい。ちがうかな。もうわからないよ、どうしよう明日から。ああ、大丈夫、明日は日曜だから会わなくていい、そんなの先週まではぜったいに思わなかった。


 その夜、私は夢を見る。現実の過去に即した夢。小夜先輩との出会いは平凡で、体験入部のときだった。平日は原則、学校指定のジャージを着て練習をしているが体験入部期間は例外で平日でも袴姿だった。

 

 恋に落ちた。理屈じゃない。

 一目見て、この人の傍にいたいと感じた。誰よりも。その背中を見守り、身体をあずけてしまいたいとも。特別になりたいって。

 部活から一緒に帰るのを提案するまで半月かかった。先輩は風のように去っていくものだから。帰り道の先輩、弓道場とは違う調子で繰り出される冗談をあしらうのに一週間かかった。一挙一動に心奪われたものだから。隣を歩いていてドキドキしてしまうのは、どうにもならないって観念するのには三日でよかった。それが恋だから。

 

 夢の中で、小夜先輩は私に矢を向ける。真正面から彼女が射る姿を見たのは初めてだなって暢気に思った。私が的。見えない糸で雁字搦めにされているかのように身動きができない、その矢が私を貫く。ただ中るで終わらず、貫通する。私の胸にぽっかり開いた穴。どう見たって矢でできたにしては大きすぎる穴からは血ではなくて、涙みたいな透明な液体が零れ落ち続けた。

 目が覚めて、私は決心する。

 私は小夜先輩と二十八メートルも距離を隔てるのは嫌だった。

 


 

 月曜日の朝。ほんの一部の運動部が朝練しているような時間帯。

 小夜先輩は私が連絡してお願いしたとおりに、弓道場の裏手まで来てくれた。空は今にも雨が降り出しそうな曇天。でも、降ってはいない。どうせなら晴れてよって梅雨空を仰ぐ私のもとへ先輩は歩いてきた。その手に傘や他の荷物はない。もう教室に置いてきたみたいだった。私はそうではなくスクールバッグも傘も全部ある。

 先輩には余裕があって私にはない。そうなんだと思うと、途端に口が重くなってしまい、空を見上げることから一転、つい俯いてしまいそうになった。

 けれど、どうにか自分を励まして先輩を前にして、しゃんとする。


「その様子だと予想は、はずれちゃったかー」

「え?」

 

 そんな先輩の台詞こそ予想外だった。私たちの間には数歩の距離がある。どちらからともそれ以上、詰めない。


「てっきり、勝負しろってことなのかなーって。下剋上だぁーって。でも、その感じだと弓道場の鍵、借りていないみたいだし。あ、ひょっとしてここを飛び越して入るつもり?」


 壁。たしかにここを乗り越えれば弓道場の内側だ。肩車でもすればいけるかも。


「勝負って……いえ、たしかにある意味では勝負です」

「でも、弓矢は使わない」

「それはそうですよ。だって、それじゃ……」


 弓をやっと引かせてもらい始めたばかりの私では相手にならない。

 でもそれを口にはしたくなかった。いずれにしても、勝算があって呼び出したんじゃない。むしろ玉砕覚悟で私はここに小夜先輩を呼んだのだから。


「唯美ちゃん」

「なんですか、改まって」


 先んじられてしまった。 


「素敵な名前だよねー。弓道部女子って感じだ」

「漢字は違っても、ユミってクラスに一人はいるような名前です。そしてそのほとんどは弓道だって、アーチェリーだってしていない」

「うん」

「あの、そんなことはいいんです。私は……」


 先輩が手で私の言葉を遮る。わかっている、皆まで言うなというポーズだ。


天使に祝福されし深き愛の矢フォーリンラブ・シャープシュートの件だよね」

「はい?」

「愛の矢って名前じゃ、地味だよねー」

「えぇ……」


 小夜先輩のネーミングセンスが絶望的であるのは知りたくなかった。愛犬の名前が那須与一からとって与一というのは、ギリギリセーフだと思っていたけれど、まさかこんな思春期の十代をこじらせたようなセンスを持ち合わせていたなんて。いやいや、一周回って、こういうところも好きだ。うん。


「小夜先輩、私は……そのオカルティックな矢を使わないでほしいんです」

「それは唯美ちゃんなりの正義? 私を信じ切れないってことかな」


 一昨日にも『これっぽちも信じていないんだ』と先輩は口にしたが、そのときとは全然違う。悲しげに彼女は微笑んでいた。


「いいえ、そうではありません。私のエゴです」

「マイボトルやマイ箸を持ち歩くとか」

「エコです、それは! もうっ、なんでこんなときまで冗談言うんですか!」

「嫌いになった?」

「えっ?」

「たとえば私が後輩ちゃんのお願いを無視して、この矢でいろんな人を射るようになったら、嫌いになるかな」


 また一段と寂しげに先輩は呟くように口にして、そして笑った。私の好きな笑顔じゃない。私が好きで好きでたまらなくなる笑顔じゃない。


「そうさせないために、私は今ここにいます」

「それって、どういうこと? ねえ、待ってよ。まさか刃物とか取り出さないよね」


 身構える先輩に私は一歩近づく。すると先輩が半歩下がって、私はもう一歩踏み出して言う。


「小夜先輩は勘違いしています。さっき言ったとおりです。私はエゴでここに立っていて、私のためだけに先輩に矢を使わせたくないんです」

「それって――――」

「好きです。私は北条小夜さんを愛しています」 

 

 もう一歩踏み出せれば触れられる、それなのにその一歩があまりに遠い。

 それでも私は顔を上げたまま、先輩を見つめて言い切った。彼女の瞳には驚きがありありと浮かんでいる。


 ぽつり、と。

 降ってきたんだと感じたときには既に本降りになる勢いだった。

 最初に動いたのは先輩で、でもそれは雨を避けて移動するどころか、逆だった。

 そう、逆だ。ゆっくりと、先輩は空を見上げた。

 そして、動いた。信じられなかった。

 でもそのときの先輩の動きはどう見たって……。


「この曇り空を射抜こうとしている?」


 私は推測を言葉にしていた。

 瞬間、先輩が笑ったような気がした。私が好きな笑い方で。

 当然、正面の的を射るのと空に矢を放つのとではその恰好は、姿勢は異なる。それなのに、たしかに先輩はそのときもいつもの、いいや、いつも以上に美しくその「矢」を放った。


「祝福してよね」


 先輩が空に向かって言った。

 そうして私は自分の目を疑った。雲間が裂かれた。いきなり。矢一本分どころではない、大きく、広く、雲が失せていた。そこから眩い光が覗いている。

 天使の梯子。ああ、そうだ、そんなふうに呼ばれる気象現象だっけ。でも、今のは、先輩の矢が起こした超常現象だ。私はそれを信じた。

 そうして雨の代わりに私たちに光が降り注ぐ。


「試してみるもんだね」

「小夜先輩……」

「唯美ちゃん。私も好き。大好き。愛している」

「え……え?」

「よしっ、それじゃあとは放課後で!」


 踵を返す先輩。その愛しい背中を私は追いかける。手をとる。掴めた。だって、このまま終わりなんてありえないでしょ。


「先輩っ! 私は本気でっ――――んむっ!?」


 振り返った先輩が私にキスをする。えええええ!??!? 


「信じてくれる? それともあと百八回言わないとダメかな」


 なんで煩悩の数なんですか、って私は言えなかった。ほんの少しの間に雨に濡れた先輩、紅潮している顔。なんて色っぽくて綺麗なんだろう。先輩の唇、その柔らかさを知ることができる日がくるなんて、こんな幸せあってのいいのか。


「信じます。けど、いえ、だからこそ矢を使うのは禁止ですから」

「うん。もう要らない。唯美ちゃんは振り向いてくれたから」

「……最初から先輩しか見ていないんですが」

「唯美ちゃん、可愛すぎでしょ!」


 私を撫でてくれるその手があたたかった。

 



 後日。小夜先輩の家で、愛の矢を射ることができなくなっているのが発覚した。

 与一が尻尾を振り回して私にじゃれついているのが面白くなかったみたいで、私が許可して先輩が与一に放ってみたところ、なんの反応もなかった。

 不可視の矢はその存在が喪失していた。「ま、いっか」と先輩は与一ではなく私を抱きかかえるようにして「天使ならいるし」と囁いた。


 あの日以来、先輩の愛の言葉に心を射抜かれっぱなしの私だ。

 近いうちにぜったい一矢報いてやるんだから!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

憧れの先輩が「前世では天使だったの」と告白してきた時の私の心情を答えよ よなが @yonaga221001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ