本文
ちゅっ。
弾ける音とともに、俺の口元から、やわらかな感触が離れていく。
逃がしたくない。
そのあとを追うように、対面する相手の頬に、自分の手を添えれば、小さなほほえみに次いで、マリアが再び目を細めた。
今一度、俺は、唇を重ねる。
地下を満たす、土と埃の匂いに混じって、ほのかなマリアの香りが、鼻孔を刺激した。
何度やっても、感触は、いまひとつわからない。
汗ばむような緊張と、とろけてしまうほどの幸福が合わさって、今にも、どこかへ飛んでいってしまうような、そんなふわふわとした心持ちだけが、俺の胸をいっぱいにしていく。
二人だけの世界。
俺とマリアのほかには何もない、特別な空間。
少しでも横に目を向ければ、夜の帳がおりたクシナと、そこに暮らす人々の姿が見える。だが、今は関係ない。今だけは、俺たちは現実を忘れて、二人だけの時間に、存分に浸ることができるのだ。
「また、ここにいたのか。マリア、ヨキ。そろそろ、就寝の時間だ。戻れ」
名前を呼ばれ、俺たちは、同時に一人の大人を見返していた。
「先生……」
成人していない俺たちは、
「ずっと、一緒にいたいのに」
「俺だって、同じ気持ちだ」
力強く肯定したくて、俺は、言葉とともにマリアの手を、ぎゅっと握りしめた。
「朝一番に会いに来るわ」
「いいや、俺のほうが迎えに行くよ」
俺たちは、一秒でも長く一緒にいようと、飽くことなく、別れのあいさつをつづけていた。だが、とうとう、先生は痺れを切らしたらしい。俺たちの会話を、横から無残に断ち切っていく。
「お前たち、毎度まいど、どうにかならんのか……」
「何を言ってるんですか、先生」
「そうですよ。俺たちは、ちゃんと将来を誓いあってます」
確認するように、俺が目でマリアに合図を送れば、受け取った彼女も、ゆっくりと力強くうなずいている。先生にすれば、俺たちの反論は、思わぬものだったのだろう。驚いたように、二三歩、その場で後ずさっていた。
「ああ、分かったわかった。俺が悪かったから、早くしてくれ。お前たちには、二人とも、明日も大事な
「……」
この星――いいや、
先生のあとを追うように、マリアが女部屋へと戻っていく。名残惜しそうに、何度も後ろに向きなおっては、小さく手を動かすマリアに対して、俺も応えるように、ずっと自分の腕を振りつづけていた。何度もなんども、大きく、それこそ腕が痛くなるほどに。
マリアが振り返ったとき、ちょっとでも、俺の姿が目に映るようにと、懸命に手を動かした。
※
鳥の声で目を覚ます。
だが、それは幻聴だ。この地下に鳥はいないし、今や地上にだって、一羽も生息してはいないだろう。昔、本物のさえずりを、一度だけ聞いたことがあるので、それを寝ている間に、思い出したのかもしれない。眠りが浅かったのだろう。久しぶりの務めに、自分でも感じている以上に、俺は緊張していたのだ。
マリアに会いに行こう。
マリアの顔を一目でも見れば、こわばった体も、たちまちほぐれてくれるはずだ。
軽く伸びをする。
男部屋は、人数が多く、ほぼほぼ雑魚寝の状態だ。足の踏み場がまるでない。
そばで寝ている、ほかの子どもたちを起こさぬよう、そっと部屋を出た俺は、マリアのいる女部屋へと向かって、てくてくと足を進めた。
なんともなしに、深く息を吸う。
昨夜と何も変わらないはずなのに、朝というだけで、どこか、空気が澄んでいるように感じられた。
空気がうまい。
深呼吸をくり返す俺の瞳に、歩く大人の姿が映る。今日の主役とも言うべき、俺の師匠だった。弟子として、あいさつをしないわけには、いかないだろう。急いで近寄り、俺は、頭をさげる。
「師匠。今日は精一杯、護衛に努めます」
俺のあいさつに、師匠は、少しだけ驚いた顔をしていた。
「おお、ヨキか。えらく早起きだな。だが、あまり気張ってくれるな。近頃は、バケムクロも、鳴りをひそめてるようだからな。お前には、俺の警護なんか早く辞め、一人前の
師匠の言葉からは、俺に期待しているということが、ひしひしと伝わって来た。
素直にうれしい。
だが、尊敬している師匠の足元には、まだほど遠い。それくらいは、俺にもわかっている。お役目に、嘘はつけない。
俺は、うれしさの隠せていない顔で、師匠の言葉をいさめていた。
「それだと、師匠を守る者が、足りなくなってしまいます」。
俺の返事に、師匠は、少しだけ相好を崩した。どうやら、今日は機嫌がいいようだ。あのまま二度寝をしなくて、本当によかった。もちろん、真の目的は、マリアにいち早く会うためだったが、師匠と話せたことも、俺としてはとてもうれしかった。ずいぶんと久しぶりに、お役目以外の話を、師匠とできた気がする。
「まったく、戦士になりたがる者ばかりが多くて、いかんな」。
そう言って、師匠は、俺に手を振った。なぜ、俺がこんな早くに活動しているのか、師匠にしてみれば、お見通しなのだろう。少しだけ気恥ずかしくなりながらも、俺は、礼を言って、その場をあとにする。そのまま急いで、マリアのもとへと向かった。
俺たちの生活は、安全に暮らせる地を求めての、放浪が基本だが、こうして、長めに滞在できる場所に、居座った際には、生活に、
ゆえに、俺は、女部屋に立ち入ることはできない。踏み入ることを、許されてはいないのだ。
目の前に現れた、複雑に入り組んだ通路。その一つの出入り口で、俺は、マリアが起きて来るのをじっと待った。
この時間は、とても心地いい。
マリアと離れているときは、寂しくてたまらないが、今は、もうすぐ会えるという喜びのほうが、強くなって来ている。膨らむ期待が、やわらかな幸福となって、浜に打ちつけるさざ波のように、少しずつ俺に押し寄せては、待ちきれない焦燥感とともに、漸減していく。ひときわ大きい、弾けんばかりのうれしさが来るのは、やっぱり、この目でマリアを見つけたときだった。
にわかに、俺たちの視線が交差する。――と、マリアの瞳が、大きく見開かれた。
まだ、朝は早い。
マリアも、昨晩に話していたように、俺を迎えに行くために、早起きしていたのだろう。決して勝負事ではないが、胸のうちでは、趣の異なる優越感を覚えていた。
「負けちゃった」
その一言に、猛烈な愛おしさがこみあげて来る。嗚呼……やっぱり、俺とマリアは、似たもの同士だ。同じ価値観を持ち、似たような考え方のできる、よきパートナー。そこにははっきりと、運命さえも感じ取れる。これは決して、大げさな表現だとは思わない。
「おはよう。ずいぶん、早起きなのね」
「マリアだって、同じじゃないか。……本音を言うと、久しぶりの実地に、少し緊張してる。中々、寝つけなかったのもあるが、だからこそ、マリアに早く会いたかった」
「わたしもよ。早く今日の仕事をおえて、あなたのお世話がしたい」
「おいおい、昨日もそう言って、結局俺が、尽くされてばかりだったじゃないか。今日は、俺の番だ。俺に、マリアの世話をさせてくれ」
束の間、不服そうにマリアが顔を歪める。だが、この点だけは譲れない。疲れたマリアの、体と心を解きほぐしていく。その瞬間が、何よりも自分の存在意義を、感じられるのだ。
満たされていく。
俺の心が、マリアという一人の女性で、埋めつくされるような、すべてを超越した幸福感が、そこにはあった。
手をつなぎながら、食堂へと向かう。ゆっくりと、マリアをエスコートするように、慎重に歩を進める。
少ない朝食。
食料の生産を思えば、これも致し方のないものだろう。
だからこそ、本当は、自分のぶんさえも、すべてマリアにあげたかったのだが、彼女が頑なに拒んだので、それはやめざるをえなかった。
自分の朝食を食べながら、マリアに口を開けてもらって、彼女のぶんの食事を、そこへと運んでいく。かいがいしい、身の回りの世話への没頭。
やはり、この時間が一番だ。
神を除けば、このために自分は生きているのだと、そう強く実感できる。
充実の一言。
だが、やがて、聖域へと出発する時間になった。名残惜しいが、マリアにも、俺以上に立派なお役目がある。仕事に向かうマリアのことを、見送れないのは、非常に心苦しいが、俺も自分の務めを果たそう。
「行ってらっしゃい」
すでに集まりつつあった面々のもとへ、俺が小走りで駆け寄っていけば、後ろから、マリアがひときわ楽しそうに声をあげた。
俺はうれしさと悔しさが入り混じった、複雑な気持ちを押し殺しながら、小さくなっていくマリアに向かって、何度も後ろを振り返っては、高く腕を持ちあげた。
「ヨキ、そろそろ地上に出る。気を引き締めろ」
師匠の短い一言が、一瞬にして俺の体から熱を奪う。
そうだった。浮かれている場合ではない。
これから、俺たちは、命の危険が伴う場所に、向かわなければならないのだ。
「はい。すみません、師匠」
一気に、緊張感が体中を駆けめぐっていく。
それは、鋭い痛みを感じたときにも似ていて、全身が勝手にこわばっていくのだ。理性では、それが状況を悪くする一方だと、わかってはいても、本能的な恐怖には抗えない。
足がもつれる――いいや、錯覚だ。
俺の足は、平時と同じように、きちんと動いている。
落ち着けおちつけ。
自分に言い聞かせるように、俺は、何度も深い呼吸をくり返した。
少しでも緊張がやわらぐように、太陽のようなマリアの笑顔を、頭に思い浮かべながら、何度もなんども、息を吸っては吐くのをつづけた。
真っ暗な道。
拠点とは違って、道中に明かりはない。
己の記憶と経験だけを頼りに、地上へのルートを淡々と進む。
ややもすれば、自分の現在地を見失いそうだった。
じゃりじゃり。
先頭を歩く師匠の足が、一定の間隔で音を刻む。
まるで、自分はここにいるんだと、そう言外に主張しているようで、とても心強かった。
やがて、頭上にワルハバの光が差す。
ほの暗く、とても地上を覆うのにはほど遠い、小さな光。これこそが、バケムクロの発見を遅らせる、最大の要因であるというのに、ちっぽけな俺たちには、どうすることもできない代物だった。
当たり前だ。
恒星をどうこうしようなんて、人間にできる仕業じゃない。それでもまだ、淡い光があるだけマシだと、思うよりほかにないのだろう。
「昔は、もう少し明るかったそうっすね……ワルハバ」
空を見あげる俺の視線に、気がついたのだろう。モタカ先輩が、俺の気持ちを代弁するように、横で独り言ちていた。
それを受け、師匠が言葉をつないでいく。
「古代文明の話か……。失われた技術が
「知ってますよ。言ってみただけっす」
そう応えて、モタカ先輩は、俺を見やった。満足したかと問いたげな視線に、俺は、頭を軽くさげることで、謝辞の代わりとした。
さすがはモタカ先輩だ。頼りになる。
儀式に関する物覚えが悪いので、師匠を補佐する者としては、客観的に見て、俺のほうが上になってしまうだろうが、それでも、視野の広さとでも呼ぶべき、気配りのうまさでは、比べようもない。
いつまでも、こういった頼れる諸先輩に、甘えていたいところだが、今朝に言われた師匠の言葉もある。俺だって、期待には応えたい。俺は、早く一人前にならなきゃいけないんだ。
「じゃあ、兄さん。聖域にある、あの大きな船も、古代文明の一つなの?」
モタカ先輩の弟にして、俺の後輩にあたる
「ああ……。俺は、あんま好きくないけどな」
「おしゃべりは、もういいだろ。集中しろ」
「ういっす」
黙々と歩く俺たちが、さらなる大きな緊張感に包まれたのは、それからすぐのことだった。モタカ先輩が、鋭い口調で言い放ったのだ。
「右斜め前方。ちょっと、何か動いたっすね」
「俺、見て来ます」
早く大人になりたい。
逸る気持ちから、俺はモタカ先輩が示したほうへと、素早く近づいていった。
岩陰を覗きこむように、慎重に身を乗りだす。
「……」
いた。
小ぶりだが、確かにバケムクロが一匹、蠢いている。
バケムクロは、人類の敵だ。倒せるようなら、ここで始末しなければならない。
相手はまだ小さいんだ、俺一人でも余裕だろう。
とっさに、魔法を使おうとした俺だったが、まもなく思いなおす。
ただでさえ、クシナに残された魔力は少ないのだ。こんな雑魚相手に、一々魔法を発動させていては、ダメだろう。
抜き身の短刀で十分だ。
意を決すると、俺は、岩に手をかけた。
跳躍。
岩を飛び越えると同時に、バケムクロを目がけ、勢いよく短刀を振りおろす。
ぐしゃり。
寸分も狂いなく、脳天を貫くと、そいつは何をするでもなく息絶えた。
あとには、動かなくなった死骸だけが残る。
その体に触れ、きちんと死亡したのを確認した俺は、みんなのもとへと戻った。
「先輩の言ってたとおりでした。小さいバケムクロを視認。その場で処分しました」
好意的にうなずく、モタカ先輩とは対照的に、師匠は、俺に鋭い視線を向けた。
「魔法を使ったようには、見えなかったが?」
「相手が、とても小さな個体だったので、通常の武器で大丈夫と、判断しました。まずかったですか、師匠?」
「いや、お前が無事なら、それでいい。だが、くれぐれも油断するな。体が小さいからといっても、やつらはバケムクロだ。そのことに、違いがあるわけではない」
「はい……」
魔力の節約。
俺は、自分の気遣いが、正しく評価されなかったことに、少しだけ不満を抱いてしまった。その不満は、声のトーンにも表れていたのだろう。師匠はつづけて、こう話す。
「だが、
「はい!」
それからは何事もなく、俺たちは、無事に聖域に到着した。
神の言葉を聞くための儀式は、非常に複雑だ。
いつもどおり、二時間ほどかけて、儀式が執り行われる。そのおわりに、大いなる存在の声が、聖域内にこだました。
絶対的な超越者。
文字どおり、別格の存在を前にして、思うことは、平伏の二文字だけだ。肌が焼けるほどの高揚感と、背筋が凍るほどの畏怖。神という超次元の存在が、自分を愛してくれている。それを考えるだけで、俺には、どんなバケムクロとも対峙できそうな、そんな桁違いの勇気が湧いて来た。
「普段どおりに過ごせ」
厳かな、み言葉。
たった一言が、何時間もかけて発されたかのような、気にさえなる。
「承知いたしました。偉大なるお導きに、
師匠の言葉に合わせ、補佐官の俺たちも、深々と頭をさげていく。これは、意識しての行動ではない。
自然に体が動くのだ。
そうして、余韻に似た残響が消えると、すぐさま俺たちは、師匠のもとへと駆け寄った。直後、師匠が疲れ切ったように、体勢を崩す。
無理もない。
全神経を集中させ、儀式に臨むのだ。生半可な疲労ではないだろう。
師匠の肩を支えながら、俺たちは、聖域の外に置かれた、一隻の船を目指した。もちろん、それは、移動するためのものなんかじゃない。
古代文明の遺産――宇宙船。
どのような目的で、それが作られたのかは、今となっては全くわからない。扱い方も無論だろう。だが、その機能の一部については、俺たちの魔力でも、容易に動かすことができた。
拠点との通信。
宇宙船の前方に置かれた椅子へ、師匠を座らせると、俺たち補佐官は、その傍らに控えた。
「ふぅ」
もうひとふんばりだ。
そう言わんばかりに、師匠が短く息を吐く。次いで、通信に必要な魔力を、機械に注いでいった。
ほどなくして、中央の画面に光が灯る。
その機械には、拠点にいる先生の顔が、写しだされていた。この光景を何度見ても、俺には、不思議に思えて仕方がない。いったい、どんなからくりで、できているのだろう。
「無事におわった。これより戻る」
「みな、首を長くして待ってますよ」
この場で、神からの言葉を、告げるようなことはしない。そういう
だが、俺は、しきたりだからとかじゃなくて、大事なことは、相手の顔をちゃんと見ながら、話さなきゃいけないのだと、強く思う。
やり取りがおわると、すぐに画面の光が消える。辺りは、一気にまた薄暗くなった。
隣に立つモタカ先輩の表情でさえ、俺の位置からでは、正確には読めない。どうにも、宇宙船を快く思っていないらしいので、存外、神をより一層身近に感じられる、聖域という場所にいながらも、その気持ちは、決して、晴れやかではないのかもしれない。
その後、俺たちは、簡単に聖域を清めてから、拠点へと戻った。
帰り道、何体かのバケムクロに遭遇したのだが、そのことごとくを、モタカ先輩が、一人でやっつけていた。すさまじい戦闘技術だ。モタカ先輩は、きっと否定するだろうが、本職の戦士にも引けを取らないと、俺は思う。
しばらくして、俺たちが拠点に戻ると、ほとんどの住人が出迎えてくれた。手を離せない数人を除けば、
それだけみんな、神のご意思をいち早く聞きたいと、思っているのだ。師匠の口が開かれるのを、一同が、今か今かと待ちかねている。
「普段どおりに」
それは、難題を課されなかったという、緊張からの解放などではなくて、神の慈愛が、滞りなく自分たちに注がれていると、そういう安心からだった。
そののち、俺たちは師匠から、儀式についての勉強を教わった。
やがて、夜になり、一日のお役目がおわる。
夕飯を食べるため、俺が広間に向かうと、そこにはすでに、麗しいマリアの姿があった。
俺は、マリアの顔を見たとたん、この一日の疲れが、瞬く間に吹き飛んだ気がした。
「大事なお務め、ご苦労様です」
労うように、マリアが俺に湯呑を取ってくれる。
本当は、俺がマリアに、色々としてあげたかったのだが、仕方ない。思いのほか、今日の勉強はハードだった。これも今朝、師匠が話していたように、俺に対する期待の表れなのだろう。
「何を言ってるんだ。マリアだって、比較にならないお役目を、もらってるじゃないか。医者……覚えることは、
「まだまだ、わたしは、見習いだけどね。おばあさまは、本当にすごいわ。今日も急病人に、的確な治療をしてたのよ。わたしが一人前の
「それでも、補佐官として言わせてもらえば、聖域までの道のりは、少なからず、戦いは避けられない。見習いといっても、マリアが貴重な
俺の何気ない一言に、マリアが飛びあがらん勢いで、驚いてしまう。
「ヨキもバケムクロと戦ったの!? 体は平気?」
「ごめん、心配させちゃったか? ありがと。平気だ。戦ったといっても、非常に小さなやつだったからな。楽勝だったよ」
他愛もない話をしている時間は、あっという間に過ぎてしまう。それこそ、時間というものが、とみに溶けていくかのようだ。
「じゃあ、また明日。明日こそ、わたしに迎えに行かせてね」
「ふふっ、わかったよ。おやすみ」
言って、俺は、マリアの頬に口づけをした。
※
昨日につづいて、
ワルハバの光を背に受けながら、師匠の動作を覚えるように、俺は、じっと見守っていた。
ただでさえ薄暗い、地上という異界に設けられた、関係者にしか発見不能な、地下への入り口。魔法を使って、扉を強引に上へと押しあげれば、中からは、地下への階段が姿を現す。
段数は、全部で三十六。
かなり深い。
それでも空気が薄くならないのは、拠点と変わらない仕様だったが、時々は、場を清めるために、魔法で換気を促していく。
「ヨキ。今日は、お前が序盤をやってみろ」
階段をおりていく最中、師匠が俺の顔を振り返りながら、何気なく言った。
「俺が、ですか?」
驚きのあまり、俺は、オウム返しのように応えていた。
「ああ。
「……は、はい。ぜひ!」
(中略)
……おわった。
ずっと緊張しっぱなしで、神経がすり減るような思いだったが、なんとかやり切った。
師匠は、これを十分足らずでこなすが、俺のかかった時間は、優に二十分を超えていた。
安堵もそこそこに、師匠が俺の肩を叩いて、場所を譲るように促す。残りの儀式を、師匠が引き継いでおわらせるのだ。
成果について、師匠は、何も言わなかった。神聖な儀式の最中なのだから、私語厳禁なのも当然だろう。
すべての項目を無事におえると、おもむろに師匠が口を開く。
「偉大なる神よ。我らの明日を、お示しください」
俺たちの間で激震が走ったのは、次の瞬間だった。
「これより汝らは、魔力の調査をはじめよ。宇宙船を用い、民を乗せ、この地を立つのだ。我、クシナの神なり。違う星には、我とは異なる神もおろう。しかし、クシナの民よ。我を信じよ。魔力の調査をはじめるのだ」
「……。承知いたしました。偉大なるお導きに、
師匠の言葉に、はっとする。
俺たち補佐官は、全員が全く同じタイミングで、顔をあげていた。
もしも、今の俺たちが、師匠と同じ立場にいたとしたら、はたして、とっさに感謝を述べられただろうか。ちらりと、横を盗み見てみれば、モタカ先輩も、俺と似た感想を抱いたのだろう。悔しそうに歯噛みしていた。
これは、
動揺を隠せぬまま、俺たちは、師匠を宇宙船へと連れていく。
その
「師匠。一刻も早く、神のお言葉を、
「……黙れ。ここではどのようなことであっても、
「しかし!」
言いかけた言葉は、それと同時に、俺の肩が力強くつかまれたことで、中断された。
モタカ先輩だった。
痛みに釣られるように、モタカ先輩の顔を見やれば、目を閉じたまま、首をゆっくりと横に振っている。
「人にゃ、顔を見て言われにゃならねえことも、たまにはある」
大事なものほど、相手を見て話さなければならない。それは、俺の信念そのものではないか。
「……」
俺は唇を噛みしめ、黙ってモタカ先輩にうなずく。
それを見て、師匠も安心したのだろう。静かに、拠点との交信をおえていた。
帰り道、俺は急くように歩いた。歩速を抑えるよう、頭ではセーブしたつもりでいたが、どうしても、体が言うことを聞いてくれなかったのだ。
だが、その速さで、みんなとはぐれることがなかったのだから、やはり、師匠も心の中では、
「ヨキ。
もはや、話すタイミングは今しかないと、そう言いたげに師匠がつぶやく。
「ありがとうございます」
応えた俺も、条件反射のようなもので、褒められた実感が、全く伴っていなかった。
だが、異例なほど早く、
住人たちはみんな、俺たちの緊張が伝播したかのように、固唾を呑んで師匠を凝視している。
それは、神からの言葉を、師匠が告げるとともに大きくなり、ついには、とても静寂では抑えきれない、喧噪へと変化した。
師匠が話をしている間、俺はずっと、マリアに安心してほしくて、笑みをたたえていた。だが、俺が思っている以上に、それは、引きつった笑いだったのかもしれない。
「ふざけるな! 宇宙船を使えだと? 冗談じゃない! 聞くところによれば、あれはクシナを離れるための、道具というじゃないか。クシナの地を捨てようとした、古代人の道具など、断じて使ってなるものか!」
一つの叫び。
それが引き金になって、辺りで、一斉に言い争いがはじまってしまう。中でも、俺たちの正面、そこに立つ大人二人の口げんかが、最も過激だった。
「お前! 神の意志に逆らうのか!?」
「全員、今すぐこの地を離れろ、というご命令であれば、俺も従おう! しかし、そうではないはずだ。教えてくれ、
にわかに、師匠が俺の肩を小突く。代わりに答えてみろ、ということらしい。
大人同士のけんか。
まだ半人前の俺に委ねることに、俺は、やや疑問を感じたが、それでも指示に従って口を開く。精一杯、自分の中で主張を固めた。
「
「ああ。補佐官でも構わねえ。教えてくれ。我らが神は、本当に、俺たちにこの地を捨てろと、そう仰ったのか? 俺たちは、神に見捨てられたのか!?」
アチオさんの言葉に、泣き出してしまう子が現れはじめた。当然だろう。神から捨てられるという恐怖と、そこから来る絶望感は、言葉にならないものだ。俺も、
「拠点に戻る最中、俺も宇宙船についての話を、
納得したと言わんばかりに、アチオさんたちの表情が、次第にやわらいでいく。
よかった……。俺の解釈は、誤りじゃなかったようだ。
師匠も、よくやったと褒めるように、俺の肩に手を置いてくれた。だが、今にして思えば、これは師匠なりの、俺に対するテストだったのだろう。
一歩、目立つように前へと出た師匠が、よく響く声で、
「行き先は未知の星になる。ウスク……戦士としての意見が聞きたい。お前の考えを話してくれ」
俺を含めた全員が、一斉に一人の大人に注目した。それらの視線を受けてなお、一切動じることなく、ウスクさんは、自分の考えを正確に述べていた。
「はい。これは、かなりの長旅になるかと思います。ですので、食料に詳しい
「さすがだ。だが、
「わかりました」
順調に話が進んでいく中、また別のだれかが声をあげた。その内容に、師匠とウスクさんが、一瞬、目をつむる。この場では触れてほしくなかったと、そう言いたげな表情だった。
「ちょっと――ちょと待ってくれ! バケムクロとの戦闘を、考えなきゃいけないんだろ? 怪我をしたら、どうするつもりだ? 医者は? まさか、この
「だかろといって、見習のマリアに、こんなお役目を任せられるのか!? そんなことで、神のご意思が務まると、本気で思ってるのか!?」
「馬鹿やろう! お役目を果たす前に、そいつらの帰って来る場所が、なくなっちまうぞ!?」
師匠もウスクさんも、何も言わない。もはやこうなっては、だれも止められないと、わかっていたのだろう。それがわかっていたからこそ、ウスクさんは、
俺は、何もできなかった。
自分の無力さを痛感しながら、目の前でくり広げられる言い争いを、ただ茫然と眺めるしかなかった。
そんなとき、一人の人物が声をあげる。
先生だった。
「
「言ってみろ」
「はい。この
それでも、反対の声は止まらない。
「よその
これだ。
俺は、先生の意見に乗っかることが、この場を収める唯一の方法だと、直感した。
ゆえに、出しゃばったかもしれないが、俺は口を開いていた。
「聖域は、俺たちが独占してるものじゃありません。それともあなたは、神聖な場所を、俺たちだけで占有しろと、言いたいのですか?」
「うっ、補佐官……。いや、なにも俺はそんなつもりじゃ……」
見計らったような、師匠の咳ばらい。
この場に、不自然な沈黙が作りだされる。
「なるほど……。ヨキや先生の指摘するとおり、聖域をともにする
「わかりました。……しかし、
「ふむ。何が言いたい?」
みんなの気持ちを代弁するように、師匠が尋ねる。だが、この二人であれば、きっと手に取るように、お互いの主張がわかったことだろう。
「はい。
答えを聞き、ようやく俺にも理解できた。
補佐官は、その性質上、
「なるほど。ヨキ、頼まれてくれるな?」
「承知しました」
俺は、特に驚きもせずにうなずいていた。
クシナを旅立つ補佐官には、先輩たちが選ばれるはずだ。間違っても、俺や、モタカ先輩の弟じゃない。
しかし、そこで候補の一人である、モタカ先輩本人から、声があがったのだ。その声音は、いかにも言いにくいことを話す、そんな響きを伴っていた。
「あの~、ちょっといいっすか? この話の流れだと、
思いもよらない発言だった。
反射的にマリアを見る。彼女も、不安そうな表情で、俺のことを見つめていた。
マリアと離れたくない。
とっさに抱いた気持から、俺は、つい抗弁していた。
「待っ、待ってください! 俺は、クシナから出ていくつもりは――」
「貴様、お役目を放棄するのか?」
師匠が、今までも聞いたことのないような、恐ろしく冷たい口調で、俺に向かって言い放っていた。
「いえ……滅相もございません」
反論の余地などない。
そう答えざるをえなかった。
俺だって、神のご意思ほど重要なものは、ほかにはないと、固く信じている。
だけれど……。
それでも、マリアと離ればなれになってしまう、という不安は、神から見限られるのと同じくらい、俺をパニックにさせるのだ。
俺の葛藤をよそに、ウスクさんによって、
ウスク隊長を筆頭に、俺・オオミ・シイナ・マイ。それから、
顔合わせもほどほどに、ウスク隊長は、マイを引き連れて、
目が合うと、先輩は自ら、俺のほうへと近寄って来た。
「悪かったな……マリアがいるのに」
「いえ、そんなことは……」
本当は、モタカ先輩のことをなじりたかったが、かろうじて俺はこらえる。――というよりも、先輩の表情を見ていたら、とてもではないが、文句など出て来なかった。
その口元に、見たこともないほど寂しげな、ほほえみが浮かんでいたからだ。
「お前は、俺が宇宙船を嫌ってるから、押しつけたんだと思ってるだろうが、それは違う。言ったことは本当だ……と思う。まっ、嫌いな理由は、アチオさんと同じだけどな。……クシナを出るために作った乗り物が、俺は、どうにも好きになれねえ。
「えっ……」
信じられない告白だった。
長年一緒に、師匠を支えて来たモタカ先輩が、突然、補佐官を辞めると言いだしたのだ。
俺は翻意を促すべく、口を開きかけたが、モタカ先輩は、微笑を浮かべてそれを遮った。そうして、俺の前で頭をさげる。
「お役目の遂行、心より願ってるっす。
強い……とても強い、決意の表れだった。
俺は何も言えずに、歩き去るモタカ先輩の後ろ姿を、ただ見送っていた。
そんな俺たちに、再びウスク隊長から声がかかる。
「今日中に、別れのあいさつを済ませなさい」
(中略)
つづいて、幾人かの家族に、あいさつを済ませた俺は、最後にマリアのもとへと向かっていた。
その入り口で、俺が何を言おうかと迷っていると、先にマリアのほうから声がかかった。きっと、足音で、やって来たのが俺だと、わかったに違いない。
「ヨキ……」
言葉は、無粋だと思った。
だから、俺は、大丈夫だと伝える代わりに、マリアの体を強く抱きしめた。少しだけ驚いたように、マリアは身を硬くしたが、やがては俺を受け入れ、抱きしめ返して来る。そうして、ひとしきりハグしあったあと、俺は、マリアの顔を見ながら尋ねた。彫りの深いマリアの顔立ちは、何度見ても美しく、流れるような長い髪は、いつも、夜空のようにきらきらと輝いている。
「シムムさんにも、あいさつがしたいんだけれど、どこかな?」
「おばあちゃん? おばあちゃんなら、外に出てるわ。まだ、傷ついた
「いや、無理にとは言わない。マリアが代わりに、よろしくと伝えておいてくれ」
言って、俺は最後に、マリアの顔をまじまじと見つめた。
「必ず、無事に帰って来る」
「信じてる」
「うん。今日は、早めに床につくよ」
寝所に戻った俺は、灯る炎から魔鉱石を外した。たちまち、辺りが闇に覆われる。
大丈夫だ。
マリアと結ばれるまで、俺は、死なない。
※
翌朝、俺たち
普段よりも、だいぶ遠回りのルートを通ったのは、地下空間内の移動を多めにし、少しでも、地上でバケムクロと遭遇する危険を、回避するためだった。
もちろん、地下であっても、出るときは出る。しかし、地下であれば、定期的に
俺たちの努力は、実を結んだようだった。
一度もバケムクロに遭遇することなく、無事に聖域に到着したのだ。あとは、
「ハルカ。俺が抜けることで、補佐官としての務めが増えて、大変になると思う。だけれど、なるべくは、マリアのことも、気にかけてやってほしい」
「わかったよ、ヨキ兄ちゃん。俺、頑張ってみる」
「よろしく頼む」
さすがに、すでにユイさんという、相手が決まっているモタカ先輩には、俺としても頼めなかった。いくら、
そこからたいして間を置かず、図ったように、ウスク隊長たちは姿を見せた。
先頭に、若い女性。
装いを見る限り、
そんなことを思いながら、俺は、何気なく彼女の足元を見た。
――かすかに、何かが動く。
正体なんか、ほかにはない。
バケムクロだ。
聖域に侵入されるなんて、いったいいつ以来だろう。
「隊長、そこに――」
俺の声は、
「構えろ!」
人間の頭ほどのサイズ。
相手はまだ、小さなバケムクロだ。
何を大げさなと思った俺の眼前で、そいつは、周りからがらくたを集めるようにして、どんどんと膨らんでいく。
直後、それは、尋常ならざる手足を持つ異形へと、変貌を遂げていた。
人型でありながら、人とは似ても似つかない。
完全なる異物――バケムクロ。
「危ない!」
バケムクロが両腕を振り回す直前、ウスク隊長が
だが、避けきれてはいない。
体に怪物の腕があたり、ウスク隊長たちは、大きく後ろに吹き飛ばされてしまう。
それだけではない!
ウスクさんたちをはねのけてなお、腕の勢いは止まらず、辺りにあった岩をあちこちへと弾き、その一部にいたっては、俺たちのほうにまで飛んで来ていた。
大慌てでの回避。
その場で身をかがめた俺は、不安げに、ウスク隊長のほうを見やる。
「……うっ」
漏れる、うめき声。
よかった。隊長たちは生きている。
どこを見ているのだろう。
釣られて、俺も視線を向ける。
だが、確認するまでもなかった。聖域には、俺は、幾度となく足を踏み入れているのだ。
宇宙船。
そこに、バケムクロによって飛ばされた岩が、無情にも落下していたのだ。
「おいおい、おいおいおい!」
どうにか直撃は免れたようだが、このまま、ここで戦闘をつづけていれば、被害は確実に免れない。バケムクロを片づけるのよりも先に、宇宙船のほうが、粉々に破壊されてしまうだろう。
同じことは、隊長も思ったはずだ。
だが、それからの行動は、俺の想像とはまるで違った。
「マイ! みなを連れ、早く乗りこめ! ヨキ! 今からお前がリーダーだ!
俺は、一瞬、ためらった。
当たり前だ。
俺が隊長を代わりにする、という点もそうだったが、医者のいない部隊で、クシナを出ていくことが、現実的ではないように思われたからだ。
急いで、こいつを始末するしかない。
俺は、反射的に剣を抜いていた。
しかし、それを見越した別の
「お前のお役目はなんだ、
かけられた言葉が、おのずと、モタカ先輩の台詞を思い起こす。
『俺の代わりに、
悲痛な願い。
俺よりも長い時間、
ややもすると、見過ごしてしまいそうなほど、それは短い言葉だが、込められた思いは、まさに万感と呼ぶにふさわしい。
俺がやる。
モタカ先輩のためにも、俺がやらなければならないんだ。なぜ、そのことに、もっと早く、俺は、気がつけなかったんだ。
吠えた俺が、
「行きます!」
構えていた剣をすぐさましまい、俺は、茫然と立ち尽くす面々の腕を取って、宇宙船へと走りだす。
「それでいい……」
ウスク隊長が安心したように、再び目を閉じた。
それを横目に、俺たちは、宇宙船へと乗りこんでいく。
操作の方法など、まるでわからない。
現地で、
とにもかくにも、動力だけは必要だろうと、俺は、急いで魔鉱石をばらまいた。まもなく、その船体が勝手に浮上しはじめる。
「どうすんだよ、これから……。俺らに、操作方法なんてわかるのか?」
みんなの気持ちを代弁する、オオミの言葉には、シイナが応じていた。
「戦闘ならともかく、日常の魔法なら、たぶん、あたしが一番詳しいでしょ。なんとかやってみるよ……。それより、問題なのは、魔力のある星を、どうやって見つけるのか、ってほうじゃないの? どうすんのよ、これ。行き先が決めらんなきゃ、魔力の調査もなにもないじゃない……」
もっともな疑問だ。
そして、その問いには答える者がいない。
みんな、隊長である俺の言葉を待つように、じっと顔を見つめて来ている。
だからこそ、俺は、みんなを安心させるように、ひときわ大きくうなずいてみせた。
未知の星に何が必要なのかと、持ち物の整理をしていたときに、俺が思いついたアイディア。それは、師匠やウスクさんの知恵を借りて、正式な魔力の探査方法へと、変わっていた。
「大丈夫だ。それについては、ちょっとした考えがあるんだ。任せてくれ」
この瞬間、俺たちの、長いながい旅がはじまった。
②星々をまたぐ嫉妬 ~痴話げんかは、神さえ食わない~ 御咲花 すゆ花 @suyuka_misahana
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