マイ・ブレンド
黒犬太郎
マイ・ブレンド
昔から、何かある度に吐いていたような気がする。
覚えている中で一番古い記憶は幼稚園の時だ。本来なら部屋で母親の迎えを待たなければならないのに、通い始めたばかりで何も分からなかった僕は送迎バスに乗り込んでしまい、そこで混乱した挙句、僕を連れ戻そうとした先生の服に吐いた。今でも必死に謝る母親の顔をよく覚えている。
次に覚えているのは、小学校の入学式の時だ。入学式、と言っても式の最中ではなく、式が終わった後に立て看板の前で親と写真を撮ろうとした時だった。同じような服装の大人が沢山いて、同じような服装の子供も沢山いて、何故か赤の他人の親に連れていかれる自分を鮮明に想像して、そして吐いた。
何故吐くのか、どんなタイミングで吐くのかよく分からなかった。ただ、原因不明の腹痛――胃の中で暴れまわる何かが、今にも食道をせり上がってきそうな気持ち悪さに襲われ、抗う術もなく吐いてしまうのだった。逆に、車に酔った時だとか、インフルエンザで寝込んでいる時だとか、そういう時には一切吐いたことがなかった。
そして小学校を沢山の嘔吐とともに過ごし、ほとんど吐くことが無くなってきたとき、僕は中学生になった。入学式でも吐かなかった。
中学校では新しいことの連続だった。算数は数学へと名前を変え、英語が加わり、小学生の時には想像もつかなかったような物事を習わされた。新しいのは勉強の事だけではなく、例えば恋愛関係のうわさが絶えない女子生徒だとか、覚えたての隠語を連呼する男子生徒だとか、とにかく新しいことだらけだった。
僕は写真部に入った。一年生は僕を含めて二人だけ。もう一人は久地さんという大人しい女の子だった。僕は初めて恋というものを知った。
久地さんはとても地味な人だった。かく言う僕も大して目立つ方でもないのだが、彼女については部室以外で話しているのを見たことがなかった。重くて長い前髪に、乾燥してひび割れている唇。やけに色づき始めた女子の中でも異質の存在だった。だから僕はなぜ彼女を好きになったのか分からず、だから僕は彼女を好きになったのだと思った。
一度、友達に「久地さんってどう思う?」と聞いてみたことがある。彼女への評価を聞くことで、彼女を好きな僕のことを評価してみたかったのだと思う。「久地って、あのマジで地味な子か?」「うん」「え、地味以外に何も知らない」「そっか」そして彼はいつものように他の男子生徒に隠語をばらまき始め、僕はその場から離れた。
隠語と言えば、放課後の教室でその男子に無理やりアダルトビデオを見させられたことがある。やけに画質の悪いビデオの中で、女の人がやけに甲高い声で苦しそうに吠えていた。喘ぐという行為らしい。モザイクの向こう側にある陰部を想像し、久地さんが同じような姿勢で喘いでいるところを想像し、股間が痛いほど硬くなったことをよく覚えている。その現象を勃起と呼ぶ事も勿論知っていた。
部活動では彼女と話す機会は沢山あった。一年生だけで何かをさせられるということはそれなりにあったからだ。だからこそ僕は、彼女と話していても特に動悸が早くなりはしないことに気が付いていたし、それがクラスで囁かれているような恋の形とは違うという事も分かっていた。いつも通りの自分の鼓動を感じるたびに、「え、地味以外になにも知らない」という台詞を思い出し、それでも特に悔しくならなかった自分のことを思い出した。
写真部一年生の交流会という名目で、久地さんと二人で出かけることになったことがある。現地集合だったので行きは別々だったが、帰りは同じ電車になった。僕は彼女と隣り合って座った。交流会自体は特に変わったことはなかったが、それでも口下手な彼女には堪える催物だったのか、座ってすぐに彼女は寝てしまった。僕の左肩に寄りかかってくる彼女の体温を感じ、自分の左胸が暴れるように鳴っていることに気が付いて、「心臓って本当に左胸にあるんだ」などと考えてから、あまりにも左側から振動が聞こえてくるせいで心臓が左脇にあるのではないかと錯覚し始めたころ、初めて痛く勃起していることに気が付いた。慌てて鞄で隠し必死に収まるの待っていたら、努力の甲斐あってかすぐ収まってくれた。その代わり久々に吐き気に襲われたが、流石に吐くことはなかった。
その夜、どうにも眠ることができなかった。瞼を閉じれば、すぐに久地さんのあられもない姿が思い浮かんでしまうからだった。どうにか眠気が来てくれないものかと、僕にとっては退屈の象徴である理科の教科書を読んでいた。「花粉症」の文字を見て、「私、イネの花粉症が酷いの」と目を擦る久地さんを思い出して、「花粉って木の精子らしいぜ」という男子の発言を思い出して、「ってことは花粉症って顔射と同じじゃん」という別の男子のばかげた発言を思い出して、精液まみれになった久地さんの顔を想像して、痛く勃起した自分の股間に気が付いた。
右手で擦り始める。裸の久地さんを想像した。
──胸を押し当ててくる久地さんを想像した。
────精液にまみれた久地さんを想像した。
──────喘いでいる久地さんを想像した。
気が付いたら僕の右手は精液まみれになっていた。僕は吐いた。
吐瀉物まみれになった久地さんを想像した。そして僕はもう一度吐いた。
マイ・ブレンド 黒犬太郎 @Kuroinu_Kinako
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