釣瓶落としの後始末

押田桧凪

第1話

 つるんとした質感が特徴的なモザイクタイルを敷き詰めた壁面に僕はゆっくりと触れる。イギリスのストーンヘンジに行った時は、隣にいたガイドから史跡に触れて怒られたが、今日はいない。たぶん大丈夫だ。青いタイル模様は曼荼羅とはまた違った魅力があるような気がする。


 チュパンアタの丘に建てられたウルグ・ベク天文台。一日だけでいいから、どこか旅行に行くとするのなら。そう決めて僕はここを選んだ。別に、死期が近い訳でも何かを悟った訳でもない。青の都──そう言われるからにはきっと人を惹き付けて離さない魅力があるのだと信じていたから。


 ターコイズブルーに染められたサマルカンドの街。レギスタン広場のメドレセを訪れた時も、シャーヒズィンダ廟群にひっそりと囲まれながら青空を見上げた時も、人生の最期にはぴったりな場所だと思った。


「たけるくん、ほら早く行くよ」


 そう急かそうとするペケはどこか日本人離れした顔立ちで、でもハーフというわけでもなく、首かけ用の携帯と一緒にパスポートまで常に見せびらかす様に身に付けていて危なっかしく思えた。無邪気で子どもみたいな笑い声を上げながら僕の手を引いて、修学旅行気分なのか次の場所を回る時間がなくなるよと眉を下げて言う。


「ペケ、ここがどこか知ってる?」


「ん……えっと。星を見るとこ?」


「そうだね。六分儀っていうやつで天体の高度角を測定して緯度を、」


 地中にまで延びて弧を描く通路。この天文台を建設したウルグ・ベクは1年を365日6時間10分8秒と計算し、その誤差は現在の計測と58秒しかなかった。しかも、それが600年前という事実。


「そうなんだ」


 興奮している僕の説明に相槌を打ちながら、ペケは眠そうな顔で僕の方を見つめる。まだ時差に慣れてないせいだろうか。半ば思いつきのように計画して早朝に発って、2便を乗り継いできた疲れもあってか、話が噛み合わない。いや、ペケには興味がないのかもしれない。少し気だるそうな顔をしている。


 中学の時に同じ「星ぞら観望会」に入っていたとはいえ、それは部活強制の風潮の中で運動部を避けてクラブ活動に所属する抜け道的扱いだったわけで……。


「で、ウルグ・ベクって誰?」


 点点点の沈黙、それからずこーんというマンガ的効果音が似合いそうな展開ではあるが、そういえばペケは理系選択だったし世界史Aまでしか履修していなかったことに僕は思い当たる。これだよ、と空港で両替した10万スム紙幣を財布から取り出して像が描かれた方を見せる。ワンテンポ遅れてあーそれかぁ、私も同じの持ってると言いながらペケは笑った。


「じゃあ、これってスゴい人だよね?」


「そりゃあね。まあいいや、次はジョブ・バザールだっけ?」


「そ!」


 どうやら事前に観光パンフレットだけは読み込んでいる様でこちらは反応が早い。そのギャップにふふと心の中で笑いながら、何か美味しい物がないか僕は期待する。というのも、機内食で出されたダルバートというネパール料理は独特の香辛料のせいかよく分からない味で、控えめに言っても日本人の舌には合わない気がした。


 手をつないで雑踏を歩く。こっちでは羊肉のサモサが出るんだっけ、と僕は思いながらバザールで賑わう屋台を眺めていると伝統刺繍のスザニやノンと合いそうなシュクメルリ、クミンシードの香るプロフが所狭しと並んでいる。その中に、ドイツアザミを思わせる毒々しい赤のザクロがあった。わーこれ食べたいと言いながら駆け寄ると、もう既にペケは会計を済ませていて、ぎっしりと詰まった実を慎重に頬張る。


「え、何か甘い!」


 眩しい声。それを聞いて、こんな幸せな日も、失われた分だけ重みを増して、次いつ来るかなんて分からなくなるんだなあ、いや、もう来年は来ないんだなあと僕は今更ながらに気づく。1年が365日だった頃は、良かった。


「その昔、曜日を決めた神様がいたんだって」


 いきなり何の話、とは訊かないことにした。僕は当然その意味を分かっていて、彼女──猫屋敷ペケにはその力があった。神様と言ってもどこの宗教かは知らないけど、この国だって同じことだ。例えば、イスラム教では日食は不吉だとされたし、新月が断食の始まりを告げる合図だったのと同様に何らかの決まりが必要で、紀元前のエジプトやメソポタミアでは月の満ち欠けの周期や、天体、七日間で世界を創造したとされる話によって曜日は自由に解釈された。


 そうだ、解釈だ。そう思えば少しは気が楽になるんじゃないかと何度も試したけど全然そんなことはなくて、「神様が曜日を決めた」という彼女の軽い言い方に僕はふっと鼻で笑った。曜日を決めたのは人間様の都合であって、そこに神が介入するはずが無いのだから。


 神を人間の理解可能なものに貶めてはいけない。それだけは絶対的なルールで、恐らく彼女もそれを分かっているはずだったのに、なんでそういう言い方をしたのか僕はその真意を測りかねた。いや、きっと諦めだ。流れに身を任せた方が楽だから。


「私はね、私のための祝日をつくれるんだ」


 僕がペケに出会った時、もう既にこの世界は変わっていて、ペケは毎月どこかの一日を自分のための祝日に書き換える力があった。ようは、某スポーツの国際大会の出場国が競い合うように勝利した日を自国の祝日に制定したように、或いはアメリカのようなデイライト・セービング・タイムで生活時間を制御できる仕組みを彼女は自分の人生に生み出すことが出来た。


「この日がいいって願うと、運よく仕事が休みになったり、運動会が雨になったり、電車が大雪で運休したり。まあ大抵、厄介事が付いて回るようなことが多い気がするけどね。それでもいいんだ」


 今月の僕ら二人の一日限りの旅行。そんな貴重な一日を、僕は彼女に貰った。だけど、少なからず彼女の力には条件もあるようだ。


「ドラえもんの道具だと、日本標準カレンダーっていうのがあるんだけど。でも実際そこまで使い勝手は良くなくて。約分できる日付しか祝日にできないってことに気づいたんだ。例えば、11/11とか11/22って具合に。今月は割と少なめだよね」


 1年が365日だった頃は、良かった。変わったのは、その次の年にその日を一緒に過ごした人を含め、その人にということ。ペケはそれを「前借り」だと言った。つまり、もしその日が自分の誕生日だった場合、もう誰からも祝われることがないまま、「その日」だけが過ぎていく。誰かの記憶の中だけで、自分一人を除いて。毎月、カレンダーにひとつずつ見えない穴が空いていく。


 僕はペケが「一日」を、一握の幸せを対価に天秤に懸けるなんて正気じゃないと思ったし、それでも彼女の意志でそうやっていることだったし、何より「あと何年たけるくんとこうしていられるかな」と気弱な声で呟くものだから、やめてほしいとずっと言えずにいた。だけど、あと何年生きられるのかなんて僕らには一生分からなくて、でも見えない一日を確かに消費していた。それが、どうしようもなく愛おしかった。


 一通り観光を終えると、サマルカンド─タシケント間のローカル列車に揺られ、僕らは空港へと向かった。車窓から眺める夕焼けはなぜかもう見られない気がして、こういう何でもないような一日の先に、彼女に会えるという僅かなご褒美だけを残して日は沈んでいく。秋の日暮れは早いなんていうけれど、僕らの時間は確実に収束に向かっていた。

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