第43話「悪魔から見た世界」

 人生で、一番幸せな瞬間があるとしたら、それはきっと二十年前になるのだろう。

 高校を卒業して、就職。

 高校時代から付き合っていた彼女と、結婚。

 それから数年して、妻が妊娠して息子を出産した。

 子供が生まれて、何か変わったかと言われるとそこまで変わらないと思う。

 家族を、大切な人を常に優先し続けてきた。

 朝、妻に見送られて家を出て、夕方に仕事を終えて帰宅。

 愛する息子と妻に出迎えられて、テレビを見て、妻と子の寝顔を見てから眠りに落ちる。

 休みの日には一緒に出掛けたり、家事をやったり。

 そのすべてが、本当に楽しかったのだ。

 嘘偽りなく幸福で、満たされていた。

 妻が、家を出ていくまでは。



 私は、知らなかったのだ。

 私も息子もいない間、妻が他の男と会っていたことも。

 妻が、私の収入に不満を抱いており、それを友人にこぼしていたことも。

 妻の不倫相手が、資産家であったことも、知らなかった。

 気づけば、私は数百万のお金と引き換えに大切な妻を失っていた。

 法的に婚姻関係が解消されたから、というわけでもない。

 出ていった妻が残していった書置きを見た時か。

 あるいは、弁護士をはさんで向かい合った時に。

 私の最も大切なものは失われてしまって、もう手に入らない。



「お父さん」

「なんだ」

「お母さん、どこに言っちゃったの?」



 息子が、声をかけてくる。

 戸惑うような、媚びるような。

 その姿が、あの男を見る元妻の顔に、よく似ていたから。



「触るな!」



 気が付くと、腕を振るって息子を吹き飛ばしていた。

 少しだけ、胸が痛んだような気がしたが、それをごまかすように酒をあおる。

 愛していた妻も、息子も、もうどこにもいないのだから。

 


 それからの時間は、まさに灰色のような人生だった。

 そのころから髪の毛に白いものが混じり始め、その割合はどんどん増えていった。

 生活はほとんどずっと一緒。

 朝家を出て、職場に向かい。

 仕事が終われば、会社を出て寄り道一つせず家に帰り。

 帰宅後は、これといってすることもないのでソファの上で酒を飲むか食事をとるかして過ごす。

 そして朝になると、ソファから起きてまた会社に行く。

 それだけだ。

 時折、スーパーなどで必要なものを買うとか、入浴など最低限のことぐらいで、それ以外には何もしない。

 そんな中、時折息子が話しかけてくる。

 基本的に、暴力を振るわれたり金をとられたりするので、息子はまず私に接触してこない。



「大学の手続き、サインをしてほしいんですけど」

「学費は出さないぞ」

「奨学金の申請書類にサインしていただくだけでいいので」



 奨学金の申請ということは、万一のことがあった場合、私が責任を負わなくてはならないのだろう。

 借金の保証人になるようなことだから。

 今思い返しても、どうしてサインしたのかわからない。

 しいて言うなら、殴るのも拒絶するのも疲れていたのかもしれない。



「春から、家を出ます。大学に通うために。もう二度と、ここには帰ってこないと思います」

「好きにしろ」

 


 それが、最後の言葉だった。

 あの時、息子はどういう表情をしていたのだったか、覚えていない。

 あるいは、見ていたのかも怪しい。

 どうでもよかったのだ。

 


 それから、息子が大学に行って、社会人になっても私は変わらない。

 相変わらず、家と職場を往復するだけの生活。

 ここ数年は、誰ともまともに会話をしていない。

 妻がいなくなる前から、職場では必要最低限以上のコミュニケーションは取らないタイプだったし、そもそも話したいとも思わなかった。

 息子とは特に連絡も取りあっていなかった。

 どこに住んでいるのか、何をしているのかも、私は知らなかった。

 それどころか、どこにいるのかさえも知らない。

 妻と同様、もう知りたいとも思わなかった。

 そんな日々が、ずっと続くのだろうと思われた時に。



 ――息子が、死んだという連絡を受けた。



 

「あ、貴方にとって、息子さんは何なのですか」

「さあ。私は、お金を取りに来ただけだ」



 少女は、口をパクパクさせている。

 何に対するリアクションなのかはわからない。



「本当に、何も思わなかったんですか。たった一人の家族が、死んだんですよ。それを聞いた時に、何かしら感じたんじゃないですか?」

「何も」



 その質問には、即答できた。

 妻を失った時から、心に穴が空いた感覚がある。

 一番の趣味だった野球を見ても、ボーナスをもらっても、息子が成長していっても。

 何にも、幸福を感じることができない。

 満たされないのだ。

 何に対しても、情熱を傾けられずに、冷めている。

 冷めきったまま、金銭を集めるという行為だけが私の体を突き動かしていた。

 もう、何のために金銭を集めているのかも定かではない。

 どうせ、預金するか、床に放置するだけなのに。

 わかっている。

 お金を集めるのは、稼ぐのは、家族を守り育てるためだ。

 そしてその熱を失ったから、手段が目的化しているだけに過ぎない。

 真っ当な感情が失われた今、私に残されたのは義務感と、漠然とした不満だけだ。



「葬儀場で最後にあった時だって、喪主が面倒だなって、葬儀代とかいくらかかるんだろうって、それだけ」



 淡々と、そう言い捨てる。

 少女は白い肌をさらに白くして体を震わせる。



「そんな、そんなこと」



 目の前にいる少女は、何を思ったまま顔を青くしてうつむいている。

 そんなことはわかっているはずだ。

 私が、息子に愛情を持っていないことは彼女だってわかっている。

 金銭だけを目的として私がここに来たことだってわかっているはずなのだ。

 あるいは彼女は、わかっているのかもしれない。

 わかっていたけれど、いざ現実に直面して衝撃を受けているのかもしれない。

 そもそも、どうして彼女はここまでそんなことにこだわるのだろう。

 私が、息子をどう思っていたとしても、何をしていたとしても彼女には関係ないはずなのに。

 彼女にとって、息子はたまたま居合わせただけの他人でしかないはずなのに。

 いや、もうどうでもいいな。

 このまま話していても平行線というか、堂々巡りになるだけだ。



 さっさと終わらせよう。

 私は、息を吸い込むと、叫んだ。



「いいから、金をよこせよ!」

「っ!」



 彼女の背後にいる使用人が動き出したのがわかる。

 けれども、私はまだ止まれない。

 止まることなどできない。

 そのためだけにやってきたから。

 もうそれしかやることがないのだから。



 いいはずなんだ、許されるはずなんだ。

 あの日、金ゆえにすべて奪われた。

 すべて失った。

 だから、奪ってもいい。

 息子に暴力を振るったことも。

 息子に金銭的な支援を碌にせず、逆に金銭を払わせたことも。

 そして、今ここにいて、金を得ようとしていることも。

 なに一つ、私は間違っていない。

 すべてを失って、どん底に沈んで、ただ一つだけ手元に残ったものまで、間違っているなんて思いたくない。



「返せよ!私が失ったものを!全部、全部、返してくれよ!」



 そんなことを目の前にいる少女に言ってもどうにもならないことは理解している。

 けれど、言わずにはいられないのだ。

 そう思っているから、私は叫んで。



『もう、黙れよ』



 固まってしまった。

 その声に、聞き覚えがあった。

 いや、ついさっきも聞こえていた。

 けれど、絶対に聞き間違いに決まっているって思いこんでいたんだ。

 だって、今更聞こえるわけがないから。

 以前よりずっと、冷たくて。

 あの時は含まれていなかった怒気を、はらんでいる。

 なあ、どうしてなんだ。

 死んだんじゃないのか。

 お前は。



『久しぶりだな、父さん』



 どうして、彼女の隣の箱から、お前の声が聞こえてくるんだ?

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