第38話『命ある限り』
「ほれ、どうした?服を脱ぐのが恥ずかしいのか?しかし体を拭かないと体を壊してしまうかもしれんぞ?というか壊すぞ?病気になるぞ?」
【それはそう】
【体まで拭いてくれるの有難すぎる】
そういって、しろさんは私を支えている軸につけられていた上着を脱がしにかかった。
ボタンを一つ一つ外し、なおかつ上着をゆっくりと上にずらしている。
もちろん、私は普段から服を着ているわけではないのだが、今日だけは着ている。
プレゼントにもらったネックレスも、結局壁にかけてあることが多いしね。
ASMRがないときは、文乃さんがつけてくれたりもするんだけど。
「ほれほれ、かわいいやつだのう。顔を真っ赤にして、本当に初心なやつじゃ」
そういいながら、しろさんはさらにシャツを脱がしていく。
しゅるしゅる、ずりずりという、布がこすれる音が、視聴者の耳に響く。
一方、あいかわらずアルコールランプは熱を放っており、お湯が沸く音もやまない。
まるで、本当にしろさんと同棲しているかのような感覚を覚える。
「やれやれ、なんというか貧相な体じゃのう。まあ、そこがかわいいのだが」
そう言いながら、しろさんは顔を近づけて。
小ぶりできれいに筋の通った鼻を、首筋の辺りに押し当てる。
「すんすん、すんすん、すんすん」
【ああ】
【におい嗅がれちゃってる】
【嗅がないで―】
【最高】
しばらく、しろさんはにおいをかぎ続けた。
鼻息が当たって、熱とこそばゆさで頭がぼうっとなりそうだった。
「すんすん、すんすん。ふうむ、相変わらず癖になる匂いだ。すまんな。今日は拭いたらもう嗅げないから、名残惜しくてつい嗅いでしまった」
【ありがとう】
【においフェチなのいい】
【しゅごい】
彼女は、濡れたタオルを取り出す。
これは、しろさんが通販で買った濡れない水というやつを使っているのだそうだ。
なんでもそもそも水で濡らしてはいけない機械などを洗浄するためのものだったのだとか。
確かに、機械に影響を及ぼさない水があるのなら、ASMR配信でできることの幅は大いに広がるはずだ。
ともかく、そうやって水で私の服と、体の部分となっているシャフトを拭いていく。
きゅっ、きゅっという音が響いている。
しろさんの動くことによる衣擦れの音や、耳元に顔を寄せたしろさんが吐く息が響いてきて、本当に癒される。
「長生きしてくれないと、私とて困るのだからな」
【する!】
【ありがとう】
【これだけで百年生きれる】
やがて、沸騰したので、しろさんはアルコールランプの火を止める。
そして、いよいよ食事の時間になった。
「では、あーんをしてやろう」
【何ですと?】
しろさんは、お椀とスプーンを取り出し、そっと私の口元まで匙を運ぶ。
このシーンだけ見ると、おままごとみたいだな。
「まあそう驚くな。お前がつかれている。だから、私が食べさせてやるというのだ、わかるだろう?はい、あーん」
「もぐもぐもぐ、ごっくん。はい、よくできました」
一口ごとに、しろさんはそう言いながら頭をなでてくる。
頭も脳髄も心も、ドロドロに溶けている。
やがて、食事が終わるとしろさんはお椀とスプーンを脇に置いた。
「さて、食事もとったな。次は、歯磨きをしてやろう。ほれ、座れ」
そういって、しろさんは私の頭を膝に乗せた。
そしてそのまま耳に唇を近づけて。
「なんだ、膝枕をされて緊張しておるのか、かわいいのう。まあ、そう固くなるな。ほれ、リラックスをするのだ」
さらさら、とさりげなくしろさんは頭をなでる。
しろさんにこれをやられると、正直何も言えなくなる。
ここ1年半で作られた、100以上ある弱点の一つでもある。
「息を吸って、吐いて、と深呼吸をしような。すうーっ、はあーっ」
耳元で息をゆっくりと、細く吸い、温かい息を吐き出した。
耳に息がかかり、脳が、心が弛緩していくのを感じる。
「では、改めて歯磨きをしていくからの、ほら上を向いてくれ」
そう言われてから、私は上に顔を向けさせられた。
一応、台本としてはここで視聴者が顔を横向きから上向きにしたことになっているわけだが。
まあ、それはいい。
今日のしろさんはいつもと同じで、音の出にくいかつラフな格好をしている。
ゆえに、胸部装甲が目に入る。
顔が見えないというほどではないが、視界に入らないわけでもない。
この体勢だと、見えてしまうのは仕方がない、不可抗力なのである。
「うん、どうかしたのか?ははあ、もしや」
しろさんが、何かに気付いたように楽しげな声を上げる。
顔も、笑っている。
だが経験上知っている。
これは、ドS状態の時の目だ。
「なんだ、私の胸が気になるのか?触ってみるか?んー?」
【どきっ】
【み、見てないよ】
【俺は見てるが?】
【触ってもいいんですか?】
【ガタッ】
「まあまあ、そう目をギラギラさせんでも、取り敢えずは歯を磨いてからだな」
しろさんは、傍に置いてあった歯ブラシを手に取る。
当たり前だが、歯磨き粉はつけていない。
つける必要もないし、掃除が面倒だからね。
余談だが、しろさんが普段使っている歯ブラシを使っているらしい。
彼女自身はたいして問題だと思っていないようだが、私としてはどきどきしてしまうのだよな。
キスされることが何回あったとしても、間接キスに対してどきどきしてしまう。
これはもう一生直らないのかもしれない。
「じゃあ、はじめていくぞ。口を開けてくれ」
歯ブラシを、ダミーヘッドマイクの顔の部分に当てていく。
「しゅこしゅこしゅこ、しゅこしゅこしゅこ」
オノマトペとともにしゃかしゃか、という爽やかな音が響く。
オノマトペを使われることによって、より一層お世話されているという実感がわいてくる。
「はい、これにて歯磨き終了」
結構、時間をかけてしろさんは歯磨きを終えた。
まあ、一般的な歯磨きって短すぎるって話もあるんだよね。
母にやってもらった時は、どうだったのかな。
声も顔も、もうはっきりとは覚えてないんだ。
「では、そろそろ就寝の時間だな。ほれ、寝るぞ」
しろさんは、そんなことを言いながらすっと腕を回す。
そのまま、マットのしかれた床の上に倒れこんだ。
私の頭が、彼女の胸部装甲に包みこまれた状態で。
『おお、おおう』
「おやおや、そんなに私の胸の中が気に入ったのか?」
【えっっっ】
【最高過ぎる】
視聴者たちも、うれしそうだ。
嬉しくないわけもないが。
「そこまで喜ぶのなら、今日は特別に。聞かせてやろう」
そういって、しろさんは、服を脱ぎ始めた。
現在、私は後頭部をめり込ませている状態のため、文乃さんの格好は見えない。
だが、背後の衣擦れの音から状況を予測することができていた。
服の感じから下着をつけていないことはわかっていたけども。
とくっ、とくっ、とくっと。
柔らかくて豊満な胸部装甲と、肋骨をすり抜けて聞こえてくる。
しろさんの心臓の音が。
命の音が、響いてくる。
彼女が呼吸するたび、しろさんが生きているのだと実感できる。
「この音は、死神の奏でる命の音だ。この音が止まるまで、お前が死ぬことは許されない。だから、もっと体を大事にしておくれよ」
【うん、大事にする】
【明日は朝ごはん食べよう】
【運動しようかな】
【ありがとう】
【ちゃんと寝よう】
【ZZZ】
「では、お休み。ゆっくり休むのだぞ」
そういって、しろさんは配信を締めた。
◇
『お疲れさまです』
「ありがとう。今日は、もう寝るよ」
『…………』
「寝るよ?」
『あっ、はい、お休みなさい』
文乃さんの今回の配信は、人の健康を気遣うものとなっていた。
けれど、もう一つだけ、意味があることを私の勘が見抜いていた。
私が死ぬまで傍にいて欲しいと、私に言ってくれていた。
そんな気がした。
そして、それができればいいなと、心から思った。
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