第3話『保留』
「……ということなのだけれど、どうしたらいいのかな?」
『ふむ』
夕食に行ってくる、と言って戻ってきた文乃さんが部屋に戻ってきたらなぜか悩み事を抱えていた。
どうやら、彼女の父親に仕事を受けないかと言われたらしい。
さて、どうしたものだろうか。
ぶっちゃけ、配信内容は悪くないと思う。
飴をASMR配信で宣伝。
永眠しろさんの活動内容を見れば、それがマッチしているということもわかる。
きっと、父親は相当しろさんの配信を観ているんだろうな。
しろさんのASMRとか観ているんだろうな。
娘の耳舐め配信とか、どういう気持ちで聞いているんだろうね。
いや別にいいんだけど。
まず、何に悩んでいるのだろうか。
『条件とかは結構よさそうですね』
「まあね、報酬もいいし、正直新商品を配信で使わせてもらえるだなんて絶対に楽しいと思う」
『なるほど。じゃあ、何を悩んでいるんですか?』
「それは……」
彼女は、条件的にはビジネス的には、また趣味的なことでも悩むところは一切ないらしい。
つまり、感情的な理由で悩んでいるのだろう。
家族の問題は、千差万別、十人十色。
「どう、説明したらいいのかわからなくて」
『大丈夫ですよ、いくらでも話してください。全部私が聞きますから』
そのための私だから。彼女の赤心は、全部受け止める。
そういう意思を示すと、彼女は納得したのかおずおずとうなずいた。
「まず、最初から話すと、あのね」
文乃さんは、たどたどしく話し始める。
私が相槌を打ちながら訊いた話を要約すると。
まず、父親は感情を表に出さない人で、何を考えているのかよくわからない。
目的がわからない以上、怖いとしか言えない。
娘を利用しようとしているのでは、何か悪意があるのではないかと考えてしまう。
『ええと、まず聞いてください、しろさん』
「何かな?」
『お義父様……しろさんのお父様は、配信をしているところを見ているんですよね?』
「まあ、そうだね」
しろさんから、聞いている情報によれば文乃さんの父親はしろさんの配信をいくつも見ているらしい。
しろさんの言葉によれば、嘘をついている、適当に話を合わせている感じではなさそうだ。
あるいは、彼なりに娘に向き合おうとしているのかもしれない。
おそらくだが、家族としては初めてのことなのではないだろうか。
仕事、資産家としての業務はわからない。
けれど、彼なりにどうにか距離をつめようと考えているのではあるまいか。
だから、何も無理に遠ざける必要があるとは思えない。
とりあえず、誤解は解いておかなくてはならない。
「利用しようとしているわけではないと思いますよ」
「そうなの?」
資産家というのは、いるだけで一般庶民を傷つける。
多くの罪のない庶民を、弱者を踏みにじってそれを足場に生活している。
だがしかし、その残虐な行為はすべて無意識なのだ。
意図的に、人を攻撃しようとする悪意から生じるものではない。
人が歩いている時に、無意識にありを潰すように。
あるいは反射的に目の前にある蚊を叩き潰すように。
無意識かつ、無自覚に破壊や蹂躙が行われる。
逆に言えば、彼らには悪意というものは薄い。
こと、身内に対して利用してやろうとよこしまな感情を向けるとは考えにくい。
きっと、彼なりに応援したい、あるいは歩み寄りたいだけなのだ。
『文乃さんは、どうしたいと思ってますか?』
究極的には、彼女の意思こそが一番大事なのだから。
「そうだね、正直わからないんだ」
『わからない?』
「両親が、何を考えているのかがわからない。いや、わかってはいるんだよ」
彼らなりに、文乃さんに歩み寄ろうとしているのだろう。
彼らが、文乃さんに対して今までかなり厳しく接してきた。
いくつもの習い事をやらせて、完璧であることを強いた。
それが、正しいことなのかはわからない。
少なくとも、文乃さんはご両親を信頼できていなかった。
いじめが激化していた原因は、それだったのだと思われる。
十年以上、一言も発さず、表情にも出さず。
その壁は大きい。
実際、彼らはそれが誤ちであると認め、方針を変えた。
けれどきっと、文乃さんにとって両親というのは血が繋がっているだけの他人だったし、それは今も変わっていないのだ。
だから、戸惑う。
家族として接してくる彼らに対して、どう対応すればいいのかわからない。
まるで別人のように見えてしまうから。
『嫌いなんですか?ご家族のこと』
「今の家族は嫌いじゃないよ。ただ、うーん、わからないんだ」
『なるほど』
家族というのは難しい。
私は、言葉で幾度となく文乃さんのメンタルを保ってきた。
だが、今回ばかりは私の言葉一つでどうにかなるものではない。
家族問題というのは呪いの一種だ。
『では、発想を変えてみるのはどうですか?』
「発想?」
『お父上としてみるのではなく、仕事上の相手として考えてみては?』
家族であり、仕事相手であると考えるから複雑になる。
だから一旦、抱え込むよりはある程度割り切って受け流したほうが楽だよと、教えた。
まあ、元社会人としてのアドバイスだね。
「それでいいの?」
『いいんですよ。あなたの心が、そう感じているのならそれが正しいんです』
ご両親が反省している、改善した。
重要なのは、文乃さんがどう思っているのかという一点のみ。
今はまだ、距離がある他人として見れないなら、それでもいい。
無理に距離を詰めようだなんて思う必要はない。
『そのうえで、私としては受けておいた方がいいとは思います』
「その理由は?」
『ひとつは、これが案件配信だということです』
個人でやるのとは違う、企業に依頼されて行う案件配信を成功させれば、企業に認められた存在であるという信頼が手に入る。
それが世界的な影響力を持つ早音グループであればなおのことだ。
そして信用が手に入れば、まわりまわって永眠しろさんの夢の助けになりえる。
『もう一つは、保留にしたほうがいいと思うからです』
「保留?」
『最近優しくされていて、それに違和感を抱いている。なら、いったん保留にしてしまいましょう』
もっと時間がたってから、改めて向き合ったとしても遅くはないはずだ。
文乃さんにはまだ、これからの未来があるのだから。
「ありがとう」
『いいえ』
「君の意見は本当に面白いし、頼りになるよ」
『それはよかったです』
「わかった、受けてみるよ」
この決断が正しいのかどうかはわからない。
けれど、前に進んでいることに意味があると私は思う。
進み続けられるのは、未来がある者の特権なのだから。
『ところで、今日はASMR配信でしたっけ』
「あ、うん。そうだね」
『じゃあ、ASMRのリハーサルやりましょうか』
「うん、それがいいね。今日は耳かきメインの予定だから色々試したいな。新しく買ったレース手袋を試したいんだよ」
『ほほう』
話を切り替えるために、ASMR配信の話題を振ると、ぱあっと顔が明るくなった。
うん、やっぱり文乃さんは好きなことについて話している時が一番楽しい。
というか、レース手袋ですか。
文乃さんが、見せてくれたのは黒くて薄い布を使ったレース手袋。
まるで、下着のような見た目をしている。
それはそれは、えっちではないのか。
耳かきASMR配信は何度もやってもらっているのだが、やるたびにレベルアップしているし。
さて、どうなるやら。
◇
それから一時間の間、耳かきをされて脳みそがドロドロになってしまった。
いやまあ、脳みそとかないんだけど。
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