第13話『迷いを振り捨て、耳をかく』
季節は四月。
桜が咲き、新社会人や学生が新たな生活を始めるといういわば門出の時期。
温暖化の影響化、四季が失われたといわれ始めて久しいこの日本でも、今この瞬間だけは、確かに温かく、過ごしやすい時期であることは疑いようのない事実である。
春眠暁を覚えず、ということわざにもあるようにこの時期は暑すぎず、寒すぎず、最も眠りやすい時期だ。
ただし、それは普通ならばの話である。
今の社会人には、ストレスや残業が多くのしかかり、そんな春であってもなかなか眠れるものではなかったりする。
そんな中、一人の少女がその状況を打破すべく、立ち上がった。
「…………あと、三十分だね」
『そうですね』
「…………」
『…………』
今日は、耳かきASMRをする日である。
ついでに言えば、先ほど文乃さんが言ったとおり、もう残り時間は少ない。
事前に告知をしており、SNSのリプライにはいつも以上に楽しみにしているというコメントが多かった。
まあ、耳かきというのはASMR配信において最も有力なコンテンツである。
それを求める人も、かなり多い。
多分、耳かきと耳舐めが二大巨頭ではないだろうか。
もうすぐ配信が、始まるというタイミング。
文乃さんは、食事や入浴を済ませており、リハーサルも終えている。
氷室さんと雷土さんによる機材設定も完了している。
あとはもう、配信を始めるだけという状態になっている。
彼女は、喉飴を舐めながら画面を見つめている。
緊張はしているが、あくまでも初配信は初ASMRのような壊れてしまいそうなほどではないと思われる。
ただの勘だけど。
なので、下手に話しかけると逆に悪化するかもしれないという懸念もあって話しかけられずにいた。
だから沈黙を破ったのは、文乃さんの方だった。
「ねえ」
『何ですか?』
「最近、Vtuberとしていろんな人と関わるようになったんだ」
『ええ、知ってますよ』
当然、把握している。
彼女の傍で見てきたから。
彼女の努力のたまものだ。
視聴者も、彼女の活躍を喜んでいるはずだ。
少なくとも、文乃さんから聞いている情報は大半がその通りである。
ナルキさんと関わると決意したから。
違う考えを持った人を、受容できたから。
がるる・るる先生の差し出した、物おじしてしまいそうなほどに大きな手を振り払わなかったから。
忙しい先生に対して、スケジュールを調節する手間を惜しまず、礼儀を尽くした姿勢が評価されたから。
がるる家の姉にも臆しながらも声をかけ、自分の理想のために突き進んだから。
今の彼女があると思っている。
「そういう活動に対して、後悔はない。見てくれる人が増えて、信頼できる仲間というか、友達ができたとも思っている」
実際、ナルキさんやがるる先生とは仕事とは直接関係ないやり取りもしているらしい。
アニメや漫画の話だとか、好きなVtuberについて話したりだとか、色々あるようだ。
度々、どうやって返したらいいか、という相談を受けたりもするからね。
今のところ、女性向けの下ネタとかはないからギリギリ私でもうけ負えている。
もしそんなのが来たら、私では無理なのでSNS担当の氷室さんに丸投げすることになると思われる。
いやまあ、あの二人はしろさんの年齢を知ってるだろうからそこまでえげつないことは言わないだろうとは思っているんだけどね。
「ただ、ソロ配信だけという生活をやめて、思うんだ。視聴者さんたちの、しろの永民との距離が広がったんじゃなかって」
なるほど、そういうことを気にしていたのか。
確かに、登録者数が増えたことや、裏での打ち合わせややり取りが増えたこともあって、彼女は前より視聴者に関わる時間は減った。
具体的には、視聴者が書き込む動画へのコメントや、リプなどに返信するのが難しくなった。
もともと、毎日配信やリハーサルで忙しかったこともあってかなりギリギリのスケジュールだったから、そこにコラボが加わるともう無理なのだ。
その旨は、永眠しろさんのSNSアカウントで伝えてあるし、視聴者も納得している。
ただ、しろさん自身が納得できるのかはまた別の話だ。
けれど、私がかける言葉は決まっている。
『そんなことはありませんよ』
「そう、なの?」
『少なくとも、私がそんな風に感じたことはないです』
「でも……」
『わかってますよ。そういう問題じゃないってことは。でも、目的と手段は、分けて考えなきゃいけません』
「目的と、手段?」
『文乃さんの目的は、声を通して、ASMRで、誰かを癒すことでしょう?』
「そうだね」
『コメントなどを使った視聴者さんとの交流は、あくまでも視聴者さんを元気づけるための手段の一つです。それができないなら、別の方法を模索すればいいだけのことです。今みたいに、ね』
手段は、たくさんあるはずだ。
雑談配信、ASMR配信、コラボ配信、ゲーム配信、箏動画。
そういったものを、今まで積み上げたものを、見せつければ、きっと視聴者さんたちは付いてきてくれる。
「そうか、そうだよね。うん、そうだ」
文乃さんは、私の声を聞いてうんうんとうなずいている。
「ありがとう、君のおかげで、また前に進めるよ」
『それはよかった』
一番よくないのは、立ち止まること。
もう無理だと絶望して、諦めてしまうことだと。
初めて出会った日に、私が終わった日に、絶望を共有した私たちは知っているから。
「いってきます」
『行ってらっしゃいませ』
お決まりのやり取りの後に、配信が始まった。
◇
「こんばんは、永眠しろだよ。今日は、耳かきオンリーASMRを今から、やっていくよ。無言というわけではないから、そこだけよろしくね」
【きちゃ!】
【こんばんながねむ―】
【今日は耳かきをしてもらえると聞いて】
【了解!】
【サムネにも書いてあったもんね】
【楽しみ がるる・るる】
がるる先生もよく見ているなあ。
この人、コラボしてからはちょくちょくコメント欄に出現するんだよね。
もしかすると、以前から見てはいたのかな。
一応娘だし、気にかけてはいたっぽいよね。
適当そうに見えて、しっかりしているのかしていないのか。
まあ、それはいいか。
「まずは、タオルでお耳を拭いていくよ。ほら、ふきふきふき」
彼女が取り出したのは、いかにも高級そうな、柔らかそうなタオル。
多分だけど、しろさんがバスタオルとして使っているようなやつ。
視界の端に、しろさんが手に持っているのを見ただけでそのふわふわ感が理解できる。
タオルって、高いものは本当にふわふわしているからね。
ごしごし、という強いこすり方とは違う、ぼふっ、ぼふっ、と耳の表面を優しく、やわらかく、温かくタオルを押し当てていく。
フェザータッチとでもいうのか、壊れ物を扱うような優しい手つきで耳を掃除されている。
【もう寝そう】
【心地よい】
「ちょっとだけ、強めに拭いていくよー。ごりごりごりごり」
そんな言葉とともに、しろさんの、手つきが変わる。
先ほどより、激しくタオルで耳介をこすっていく。
ゴシゴシゴシゴシ、というタオルで体を拭く音が聞こえる。
やわらかいものを、押し当てられている圧迫感が伝わってくる。
【ふわああああ】
【脳が震える】
【最高過ぎるよ】
「じゃあ、次は梵天を使っていくね」
そういって、彼女は傍に置いてあった白い毛のついた耳かきを取り上げる。
耳かきオンリー配信はまだ、始まったばかりだ。
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