第16話『君の鼓動を聴きたい』

 心音。

 心臓の鼓動の音であり、人が生きているということを示す音。

 日本という国で生活していれば、一度くらいは病院で心音を聞かれたことがあるだろう。

 とくんとくんと体内で脈打つその音を、マイクを通じて人に聞かせるというのが、心音ASMRというものだ。

 私は、心音ASMRを今日やることを知らなかった。

 彼女から聞いていなかったのである。

 リハーサルでもなかったし、アドリブなのだろうか。



【ヤッター】

【お、ついに来た】

【待ってました】



 が、コメント欄の反応を見ればすでに知っているという反応だった。

 おそらくだが、彼女はサムネイルなどでなにをやるのかを発信していたのだろう。

 それならば知っていてもおかしくはない。

 私、サムネイルは見ていないからねえ。


 

 そういえば、私は心音を聞いたことはなかったかもしれない。

 いや、あるにはあるのだ。

 心音を聞かせるというパートがあるASMRを過去に聞いていたことがあったりする。



 しかし、生前私はASMRを作業BGMとして活用していた。

 なので、リラックスしすぎないように、万が一に二も作業をしながら寝てしまわないように、音量を絞って聞いていた。

 それこそ、囁き声が聞こえるか聞こえないかギリギリのレベルまで。

 囁き声よりずっとか細い心音が、聞こえるはずはない。


 

 私は、ASMR配信者の裏側を知らない。

 彼女たちが、どのように音を収録しているのかは、裏の事情であり、視聴者に過ぎない私が知る必要は全くない。

 先ほども述べたが、心音というのはひどく小さい。

 声とは違い、体表に出ていない部分であるためだ。

 これは、普通に誰かと至近距離で会話しているところを想像してもらえばわかるだろう。

 ASMRで使われるような囁き声は、至近距離なら伝わるが、互いの心臓の音まではわからないだろう。

 心臓の鼓動をマイクで拾おうとすれば、まず間違いなくマイクに密着しなくてはならない。

 心臓がある、胸の部分を、である。



『…………』



 いやこれは、かなりまずい。

 膝枕の時点でも、かなり緊張したのに。

 胸を押し付けられるのはまずい。

 変な声を出さない自信がない。

 そろそろ、しろさんのASMRに支障をきたさないか心配である。



『心の準備をしなくては、般若心経を……いや覚えてないわ』



 先程から頑張って抑えているはずの念話が、自然と漏れる。

 まずいな。彼女の気を散らさないように、あくまでも声は出さないように抑えていたのに。

 いや、抑えきれてはいなかったわ。普通に声が漏れていたわ。

 それでも、どうにか心を静めねばと考えていたところで。



 しゅるり、という音がした。



『…………』



 いわゆる、衣擦れの音である。

 ごそごそ、という音も聞こえる。

 ぱさり、という何かが落ちる音も聞こえた。

 何かが、私の後ろで蠢いている。



 いや、違う。わかっている。私の後ろにいる生き物は、しろさんただ一人しかいない。

 私には、後ろが見えない。

 画面の中の、永眠しろさんのアバターとコメント欄しか見えない。

 いや、よく見ると画面に反射している文乃さんが見える。

 視聴者には見えていない、彼女の全身・・が余すことなく見えている。

 見えてしまっている。

 そのすぐそばに置かれている、ピンク色のジャージの上着も、見えている。

 しろさんは、椅子を引いて座り直した。

 そのまま腕で、私を抱きかかえた。

 先ほどまで、ジャージに覆われていたはずの白い二の腕が直接、私を包み込んでいる。

 



『あの、しろさん?あの、服は?』

「服はね、心音を聞いてもらうのに邪魔だから、うん、取っちゃった」

『…………大変失礼かもしれないのですが、その、下着、は?』

「ああ、下着も、上はつけてないよ・・・・・・?心音聴いてもらうのに、邪魔だから」



 ああ、うん。

 知ってた。わかってた。

 そりゃ服とかつけてたら邪魔でしょうよ。

 ただでさえ、筋肉とか骨とか皮膚とかにさえぎられてるのに。

 心音などを聴くための聴診器だって、少なくとも上着の上からは使わないもんね。

 因みに、視聴者には私の声は届いていない。

 だから、彼らにしてみればしろさんがただ説明をしただけに聞こえるだろう。



【ふあっ】

【エッ】

【その情報は助かる】

【おいおいおいおい】

【ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!】

【心音だからね、仕方ないね】


 

 コメント欄も、かなり盛り上がっている。

 いや盛り上がるどころか、早すぎて目で追いきれない。

 まあでも、配信が盛り上がる分には、別にいいのか。



「じゃあ、心音聴いてもらうね」



 頭部の向きを変えられて、そのまま耳を胸に押し当てられる。



『んひいっ』



 また変な声が出てしまった。

 彼女の白くてしっとりした肌が、私の耳に触れている。

 彼女の声も、しない静かな空間で、ただ一つ。

 小さな音がマイクに載って響き渡る。

 とくっ、とくっと音がした。

 それはささやかな、囁き声より小さな音で。

 それでもどこか力強くて。

 しろさんが、文乃さんが、確かに生きているのだと思える脈動だった。



 私は、まだこの子のことをほとんど何も知らない。

 私とは対極で、強者の側に立つ存在であること。

 なぜか、半年前に死のうとしていたこと。

 そして、今、夢を持ってその実現のために頑張っていること。

 それぐらいしか理解していない。



 私は、命を失い、人であることをやめている。

 そのことに後悔はない。

 むしろ第二の生を生きられていることを心から喜んでいる。

 だがそれはそれとして、彼女が今こうして生きていて、鼓動を響かせていることが。

 彼女の鼓動で、人が救われていることが。

 彼女が生きていてくれていることが、嬉しかった。

 その一助に、生前の私がなれたであろうことも。

 胸を直接的に・・・・押し当てられている緊張で、頭がどうにかなりそうではあったのだけど。

 


 それからほどなくして、心音ASMRは終わり、彼女は体を私から離して服を着た。

 


「じゃあ、これで配信を終わりにしようと思います。まだ聞いてくれてるみんな、おやすみなさい」

【おやすみ】

【最高だった】

【これはヘビロテ不可避】



 こうして、永眠しろ初めてのASMR配信は幕を閉じた。

 視聴者たちの心を、癒しながら。

 私の心を、大いにすり減らしながら。



 ◇



「終わった終わった―」

『…………お疲れさまです』

 


 正直少々、いやかなり疲れた。

 肉体的な疲労は全くないが、緊張からくる、精神的な疲労がすごい。

 思えば、人生において一度も女性とは縁のない人生を送ってきた。

 高校生のころから、勉強とバイトに生活のほぼすべてを費やす日々を送ってきた。

 正に、灰色の学生生活を過ごしてきたので無理もない話か。

 そんな自分が、女子高生に胸を直接押し当てられて、心音を聞かされる日がこようとは。

 いやまあ、別に彼女は私ではなく私を介して画面の向こうの視聴者に伝えていたのだけれど。



「あれ?」



 文乃さんは、パソコンの画面をまじまじと見ている。

 いや違う。

 画面を観ながら、何かを考えている。

 まずいな。

 気づかれた・・・・・かもしれない。



「あの、君に、一つ訊きたいんだけどいいかな?」

『な、何でしょう』



 私には、彼女の顔が見えない。

 見える位置に、いない。

 あと、目線を彼女の顔の部分に向けていない。

 合わせる顔がないからだ。

 見てはいけないものを観てしまったからだ。

 だが、彼女の声には感情と、有無を言わせぬ圧力が乗っていた。

 


「――見た?」

『え、いや、あの、そのですね』

 


 私は、嘘が下手だ。

 このことで、損をすることはあれど、得をしたことは人生において一度もない。

 だがしかし、この場では嘘をつかなくてはならないはずだ。

 どうにかして、この場を切り抜けなくてはいけない。

 私は、弱者代表社畜として数多のクレームにも負けず、叩き潰されながら耐えてきた実績がある。

 相手はたった一人だ。

 怒鳴りつけてくるタイプでもない。

 暴力的傾向もない。

 どうにかなる相手のはずだ。

 言葉を選べ。

 丸め込め。

 相手をごまかせ。

 私は、口を開いた。



『い、いや、あの、見てないっつ、よ?』

「…………」

『……見てないです』

「…………」

『…………すみませんでした』



 いやあの、圧が思ったよりすごかった。

 怖くて、文乃さんの顔が見られない。

 ゆっくりと、視線を上にあげて彼女の顔を見る。

 彼女の顔は、見たことがない程赤く染まっていた。

 例えるなら、ぐつぐつと溶岩が煮えたぎる、噴火寸前の活火山。

 羞恥と、怒りが血流を促進した結果だろう。

 目には涙がにじんでいる。

 正直、大変可愛らしい顔だったが。



 ◇



 その後、彼女の絶叫と説教は一時間ほど続いた。

 まあ正直、怒る理由もわかるし、嘘をついてごまかそうとした時点で私にも問題があるのは事実である。

 そもそも、こういう状況においては男が悪いと相場が決まっている。

 一時間もの間怒られた後、彼女はそのまま緊張の糸が切れたのちにそのままベッドに倒れこんで眠ってしまった。



 そして、翌朝も謝り倒して、なんとか許してもらえたのだった。


◇◇◇


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