第14話『いよいよASMR、開始』
デビュー配信が終わった後、文乃さんはそのままASMR配信の準備を始めた。
と言っても、スタンドマイクを片付けて、
準備自体は、これと言ってトラブルもなく、あっさり終わった。
「失礼いたします、お嬢様。お夜食の準備ができました」
「ああ、入っていいよ」
「かしこまりました」
ガチャリと部屋の扉が開いて、使用人が入ってくる。
確か、最初に私を組み立てたメイドさんの内の一人だね。
焼きたてなのか、熱そうにパンを持つ彼女を見ながら、私は今後の予定に思いをはせていた。
時刻は、十一時の少し前。
人によっては、既にベッドに入っている人も多い時間帯である。
『で、何で配信直前なのに、物を食べようとしてるんです?』
「何か食べたら、気がまぎれるかと思って」
『気をまぎらわせるために、食べようと思ったけど、気が重くて結局喉を通らないということですか?』
「うん……」
『大丈夫ですか?』
「それ、心配してるやつ?それとも馬鹿にしてるやつ?」
正直、ダブルミーニングである。
ついでに言えば、夜食はパンだ。
手に持って、熱そうにしているので、たぶん焼き立てなのだろう。
そのパンも、一口かじって皿の上に戻してしまった。
どうやら食事も喉を通らなくなったようだ。
そもそも、夕食も食べきれてなかったんだよね。
多分初配信前だったから、緊張していたんだろうなと推測する。
それでお腹が空いたので、夜食を頼んだがそれも食べられない、と。
こういうところを見ていると、やっぱりお嬢様なんだな。
私の場合、いつ食えなくなるかわからないから、体調や精神状態にかかわらずとにかく口にものを入れるという習慣があった。
というか、どうして食べられないのだろうか。
もしかして、いや間違いなく、彼女はまだ。
「……緊張してきた」
『……さっきの初配信は成功してたと思うんですけど』
ついさっき、初配信という一大イベントを終えていたばかり。
配信を始める前はともかく、配信中はさほど緊張しているように見えなかった。
そう考えれば、今緊張しているのは不自然に思える。
完全に、峠は越えたとばっかり思っていたのだけれど。
「私にとって、Vtuberになろうと思ったきっかけが、Vtuberとして活動する意味のほぼすべてがASMRなんだ。だからこれが実質初配信みたいなものなんだよね」
『ああ、そうでしたっけ』
確かに、そんなことをついさっき言っていた。
Vtuberになる理由は様々だし、動機が一つだけとは限らない。
例えば、「視聴者に元気を与えたい」という動機と、「広告収益などでお金を稼ぎたい」という動機は、必ずしも矛盾しない。
同時に成立しうる。
だが、永眠しろにおいては、おそらく金銭などはモチベーションになりえない。
なぜなら、実家に、金が有り余っているから。
おそらく、Vtuberになるための準備だけでも五百万はかかっている。
加えて、サポートに回っているメイドさんたちの給金なども計算にいれれば、更にその費用は高額になるだろう。
文乃さん曰く、彼女達住み込みで働いているみたいだし。
閑話休題。
金銭が動機になりえない以上、彼女にとってVtuberになる理由は、自己実現がそのすべてを占めている。
自分も、人を癒す存在になりたい。
だから、既存のVtuberのようにASMRを成功させられるかどうかというのは、彼女にとってはこの上なく重要なことなのだろう。
それこそ、「ASMRで視聴者の耳を癒す」ことができなければ、しろさんは「永眠しろ」である意味を失う。
それほどまでに重いことなのだ。
正直、私は初めからうまくいくとは思っていない。
リハーサルは確かに素晴らしかったが、彼女はまだ本番を経験していない。
そういう修羅場をくぐってきたからこそ、磨き上げられる技術というのは確かに存在するし、彼女の技量はまだU-TUBE上で活躍しているVtuberさんたちには遠く及ばないだろう。
『…………』
私にとっては、ASMRはそこまで大きなものではない。
労働で心を病み娯楽すら楽しめなくなった乾いた心に、最後まで残ったのが自発的な摂取を必要としていないASMRや、動画視聴だったというだけの話だ。
けれど、彼女にとっては。
大きなことなのだろう。
少なくとも、Vtuberとしてデビューしようと思う程度には。
あるいは、彼女が自殺を断念した理由も、そこにあるのかもしれない。
そういった部分に触れるつもりは全くない。
けれど、もしその推測が正しいなら、それはきっと尊いことだと思う。
「まあともかく、さっきの配信は実質ノーカウントなんだよね。だから今更になって緊張してる」
そのノーカウントの配信でも、直前までがっちがちだったけどね。
と言いそうになったが、ぐっとこらえた。
『緊張をほぐすために、夜食を頼んだんですか?』
「うん、食べたら気がまぎれるかもしれないと思って」
『で、緊張で食べられなかったし、当然緊張がほぐれないままだったということですか』
「うん」
『…………』
まあ、緊張してしまうのは仕方がないことかもしれない。
何か別のことで気を紛らわそうという発想も間違いではない。
さっき、私が声をかけたのもそれを狙ってのことだしね。
「あのさ、一つ君にお願いしてもいいかな」
『……なんでしょう?』
「私に、言葉をかけてくれないかな?」
『言葉、ですか?』
「君に何か言ってもらえたら、最後の一押しをもらえたら、頑張れる気がするんだ。さっきみたいにね」
確かに、先ほども私は声をかけた。
さて、今度は何を言えばいいか。
初配信に対する、私なりに思うところを言ったつもりだ。
であれば、今回もそれでいこう。
『そうですねえ、文乃さんはASMRの良さって何かわかってます?』
「……音?」
『はい、それは間違いなく正解ですね。でも、それだけじゃないんですよ』
「……?」
『一対一、ですよ』
「ああ……」
言われて彼女は納得の表情を浮かべる。
まあ、彼女も知っていたとは思う。
ただ言語化できていなかっただけで。
そういうことはままある。
『通常の配信とは違って、直接相手の耳にささやきかけているという設定のASMRは君と視聴者の一対一の構図になりますよね』
「まあそれは、そうだけど、結局何が言いたいの?」
『一対一ならもう経験しているでしょう、ということです』
「……あ」
今度は言われて初めて気づいたらしく、彼女は声を上げる。
そう、彼女は一度私に対してASMRを行っている。
『一応断言するけど、貴方のASMRは最高でした。回線とデバイスに問題がなければ、絶対に大丈夫ですよ』
「……本当に?」
『はい、私は嘘なんてつきませんよ』
すみません、今つきました。
いやまあでも、しろさんの実力への評価に嘘はない。
というより吐く意味がない。
嘘もフォローもいらないくらいに、彼女のASMRは完璧だったと心から思えたから。
『だから自信を持ってほしいです。貴方の、最初のリスナーからのコメントですよ』
「…………ありがとう」
ここまで言えば、十分だろう。
文乃さんは既に、前を向いている。
ヘッドホンを取り付け、機材の最終確認に入った。
彼女の目が輝き、背筋が伸びて、不審だった挙動が静止する。
先ほどと同じ、いや先程以上にまばゆいオーラを放っている。
さっきの配信直前もそうだが、私の言葉がどこまで響いているのかはわからない。
一応年上として、社会を経験したものとして、彼女の最初のファンとして、本心から思ったことを言ってはいるつもりだ。
けれども、言葉自体に力はない。
もし力があるなら、私が勤めていた会社はもう少し業績が上がったはずだよ。
毎日社長直々に集会と演説やってるんだから。
あの一、二時間があれば、もう少し効率よく仕事ができると思うんだけどね。
しかもあれ、昼にやるからなのか、なぜかお昼休みとしてカウントされてるし。
「喉飴取ってくるね」
『あ、はい。行ってらっしゃい』
彼女は、そういって席を外した。
のど飴を取りに行ったということは、肉体的な問題に意識が向いたということ。
つまり、精神的な緊張はいくらか和らいだということでいいと思う。
あと、出ていく直前、顔つきが少し柔らかかったような気がする。
配信開始まで、後五分。
がさがさ、という音を立てて彼女は戻ってきた。
ああ、机の引き出しの中にのど飴入れてるんですね。
手の届く範囲にそういうのがあるのは、いいことですよね。
文乃さんはのど飴を噛み砕いて、ヘッドホンをつける。
そのまま椅子に座って、パソコンを操作して、机の上に置いた私の耳元まで顔を寄せて。
「こんばぁんながねむぅ」
【きちゃ!】
【ふおおおおおおおお!】
【待ってまして!】
眠くなるような、癒されるような、か細い囁き声とともに。
夜の十一時に、しろさんは配信を開始した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます