名もなき孤独

しばの晴月

第1話

 時々この店で働いている理由を客に聞かれる。大抵それは全部が終わった後のことで、契約時間内ではないことも多い。リップクリームを塗って、荒れかけた唇にそっと触れたら笑いが少しこぼれる。

「気になりますか? そんなに俺のこと好きなの?」

 俺は別にあんたのことが好きじゃないけど、好意を持たれても笑えるほど空しいなとしか思えなえい。それでも客に冗談を吐いて、はったりを言って自分を売ることを覚えて七か月経った。

 煙草を吸ってもいいかと聞いたら、口を閉じたままぽかんとされた。三秒後ぐらいに彫の浅い顔で笑って「いいよ」と言われる。

 メビウスの箱には残り四本しかない。脱ぎ散らかされたメイド服のポケットからライターを出す。たぶん次からこの客に指名されない。結構いい人だったけど、店の規則を守ってくれる人だったけど。今日は疲れていたからいつもは言わないようなことを言ってしまうのか。大して大学も行ってないのに疲れるはずはなかった。

「俺、どこから間違えたんでしょうね。間違えたって言ったらお客さんに失礼かもしれないけど、それでも俺自身心のどこかで現状は何かの間違いではないかと思ってんすよね。でも、それでも今の俺が自分でしっくりきてるのも事実っス」

 煙草の煙が脳細胞にいきわたる快感は何にも代えがたい。薄暗いベッドルームに火がともるのが綺麗で好きだ。

「僕も家族に言えないことはたくさんあるから、生きていき辛いよ。僕にとっては家庭が間違いか、今ここが間違いかわからない」

と、俺の煙草の火も見ずに壁の染みを数えているように思えた。その横顔を見て、本当にこの人はいい人だったと思って、また空虚を感じる。同時にねじれている互いの感情論に腹が立つ。

「でもお客さんは、奥さんの女っぽさとか娘さんが気持ち悪くなったんでしょ。家庭においての父親とか。全部逃げて俺に会いに来てくれたんでしょ。もうわかるじゃん。家庭が間違ってるんだよ」

 交わらないから言葉で感情をぶつけた。でも視線は全部終わってから交わったのは数回。煙草を吸い始めてからは目が合わない。俺のほうから客の横顔へ視線をちらっと動かした。さっきと顔が向く方向は変わっていないみたいに思える。ふーっと一回煙を吐いたら、闇に静かに消えていった。

「ねえ、お客さん、案外しっくりきてるでしょ。そんな自分にしっくりきてて、この曖昧さや微妙さ、かっこ悪さが癖になるよね」

と言って灰皿に煙草を押し当てる。もう残り少ない煙草を大切に大切に吸う。

 ベットの端と端に座って、体の熱っぽさも緩々と消え、頭はさえていた。煙草のおかげでもある。つい十五分前に言ったことももう忘れてしまった。何の言葉を耳元で囁いて、どんな声で「来て」とか何とか――呟いたか。

 ベッドに座りなおすとギシと音がする。この音さえ性的に聞こえてしまうまで、毎日毎晩、性というものに振り回されて生きて金を稼ぐ。自分もたいがい性を拗らせているが、自分に金を払って行為に及ぶ男も拗らせている奴が多い。

「ルカ君」

 呆けっていた自分を呼ぶ。

「何? カツキさん」

 カツキという下の名前で呼ぶのが久しぶりに思えた。でも店の指導でサービス中は下の名前で呼ぶことになっているから、久しぶりなんてことはない。

「君に言われると妙に納得しちゃうね」

「怒ってないの? 俺結構失礼なこと言ったと思うけど。カツキさんが煙草嫌いなことを知ってて、許可を求めるところとかも我ながら自分勝手でガキだなって思ったスけどね」

 薄明るい部屋で再びギシと音がした。カツキさんが俺の方を見て笑っているのか呆れているのかわからない顔をしていた。

「いや、正直驚いたけどね、怒ってはないよ。その通りだと本当に思っただけだ」

 眼鏡をかけていないカツキさんは俺の顔はほとんど見えていないはずだ。俺の吹かす煙草の火くらいは見えているだろうか。

「煙草いつから吸ってるの?」

「このバイト始めてからっスよ。俺、根は真面目なんで未成年の時は吸ってなかったし成人してもすぐには吸ってないよ」

「煙草って美味しい? 僕三十にもなって吸ったことがないんだ」

と言って、斜めに視線を落とした。せっかく合っていたのに途絶えた。

「おいしいから吸っているわけじゃないスよ。時々、排他的で暴力的になりたくなるんスよ。その日のお客さんがキスがめちゃくちゃ下手なのに、他がめちゃくちゃうまかった時とか。やられるだけやられて、俺のペースに持ち込めない時とか? 自分の強さとか力を見せつけたくなるんでしょうね」

「僕キス下手だった?」

 カツキさんが俺の顔を急に捉える。俺よりも八個上だとは思えないほど、カツキさんの顔が必死だったから口から煙を出しながら笑った。

「いや、カツキさんのことじゃないっス。安心してください」

 「ははは」と笑う様子が力なく見えたのは気のせいだったか。

 ビービー、シャララン。空気を読まずに鳴いたのは俺のスマートフォンだった。肌触りのよくない絨毯の上でブーブーとうなりを上げる。ベッドから尻を持ち上げた時、自分がろくに服を着ていないことに気が付いた。恥ずかしさが途端に芽生え、時間を告げるものをこそこそと拾った。

「もうこんな時間か」

 カツキさんが呟きながら腕時計をする。その時俺はしわくちゃになったメイド服を簡単に叩いて畳む。そこここに落ちている服を拾って、帰る支度をしながら黙っていた。

 シャツのボタンを一つ二つと数えながら穴へと馬鹿丁寧に入れる。さっきまで漂っていた空気はアラームのせいで台無しになった。肌で直に感じていた空気を取り戻すように言う。

「ねえ、カツキさん、この煙草あげるよ。家に帰って吸ってみたら」

 スーツの襟を正していた彼は俺を見下ろす形になっている。毎日家族のために働いて、自分のために俺のところへ時々やってくるカツキさんに、

「奥さん、びっくりしちゃうんじゃない。突然煙草なんか吸ったら、俺とのことばれちゃうかもしれないっスね……ってそんなことないか。女のカッコしてる男とか、普通の人には思いつかないジャンルっスから」

 俺が手渡すメビウスの箱を静かにじっと見つめているだけで、手に取ろうとしない。家庭のことについて口を出したのを後悔した。カツキさんは怒らないし、俺の言葉で一々揺さぶられるような人ではないと思うが、いい気分はしないはずだ。

「変なこと言ったっスね。忘れてください」

 俺よりもかたいその手をとってメビウスを握らせた。

「家でも俺のこと思い出して」

 これもこれで呪いだ。冗談めかして言ったから、直ぐには直ぐ効力があるわけじゃないが。俺には他にもそこそこの金持ちの良質な客がついてる。カツキさんはその中の一人だから、「特別」をにおわせることは本当ならしないほうがいい。でもカツキさんは良いお客さんだから、勘違いしない。そういうところが俺たちからすればありがたかった。

 カツキさんは力なく笑う。俺のところへ来ることで、カツキさんは本来の自分に近づくかもしれないけど、俺に会うことで疲れもたまっていきそうだ。それなのにお金をきっちり払う。二時間二万円。

「お客様、またのご利用をお待ちしております」

 誠心誠意向き合うことが今の俺にできることだと思った。小脇に抱えたメイド服の入った袋を落とさないように、ほぼ直角に腰を曲げて礼をする。部屋から出ていくカツキさんを見送った。

 どっと疲れた。幸福感と罪悪感と悲壮感がベットの上に転がる。自分の背中が重くて、派手に寝転がる。

 メビウスのにおいが微かに浮かんでいる。俺がいたという証拠のように、今日も自分自身を売って生きていることの証のように。少しざらついた顎を触ったら自然とため息が出た。

 自分のようにぐったりとするスマホ。店に連絡を入れて、透也とうやに電話した。俺のスマホが音を出すだけで、透也は一向に電話には出なかった。留守番電話に繋がったところでメッセージを残さず切る。繋がらなかったおかげか、ホテルから出る決心がついた。

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