想い鏡

裏耕記

曇る鏡は何を映す

 遠い江戸では将軍様が変わったらしい。

 だからといって、この宿場町では何も変わることはなかった。


 いつもと同じ仕事に追われる日々。

 住み込みの使用人に個室などありもせず、衝立で仕切った二畳が私の居場所だ。

 

 布団を敷けば、歩く事もままならない。

 そんな小さな範囲では、一般的なの行李(蓋付きのカゴ:私物入れ)ですら邪魔になる。


 だから私の持ち物といえば、小さな行李に多少の着替えと無理して買った手鏡だけ。

 それが私の財産の全て。



 その大切な大切な青銅の重い鏡は、いつものように私を写す。


 ぼやけて、曖昧な顔。

 私は今どんな顔をしているのだろうか。


 鏡は既に曇ってきている。

 もう研ぎが必要な時期に差し掛かっているみたい。


 あの人は今どの辺りだろうか。

 あの人がこの宿場町を離れて行ってから、ずっと待ち侘びている。


 私のように、あの人を待ち望んでいる娘がいるのだろうか。


 ※ ※ ※


 あの人との出会いは、二年ほど前になる。

 盆と節気の休みに渡される小遣いをコツコツと貯め、十年経ってやっと買えた青銅の金属鏡。

 小さな手鏡だけど、私にはそれで精一杯。


 美しく輝いていたのは数月だけ。

 鏡面は次第に曇っていき、顔の輪郭くらいしかわからなくなっていった。


 そんな時、この宿場に訪れたあの人が、私の鏡を研いでくれた。

 彼は、宿場から宿場を渡り歩く、流しの鏡研士かがみとぎし


 だから研いでくれたのは仕事として。

 特別な意味なんてない。


 研いだ鏡が曇る頃に現れては、また去ってゆく。

 その繰り返し。



 あの人の鏡の扱い方は大層優しくて、まるで私を優しく扱ってくれているようで惹かれてしまった。


 どれだけ想いを募らせようとも会いに行くことはできない。

 幼いころに口減らしで売られた私は、ここから出る術がないのだ。


 それに字を知らないから手紙も書けない。


 離れたあの人に親愛の情を伝える方法は、私にはない。

 気持ちを伝えるなら、私の鏡を研いでくれている少しの間だけ。



 この宿場に訪れる鏡研ぎのあの人。

 次に会えるのは、まだ二か月も先。


 ここには、季節の終わり目に訪れる。

 鏡を磨いては隣の宿場へ。そして終えたら、さらに次の宿場へ。

 山間の宿場を巡り終わると最初の宿場に戻るらしい。


 それが三か月という時間を要する。

 だから、どれだけ待ち望んだとしても、どれだけ恋焦がれても、三か月は絶対会えない。



 鏡は時が過ぎるたびに、段々と曇る。

 私の心と同じように。


 くすんだ鏡は待ちくたびれている。

 少しずつ曇りを増やしながら。



 水が沁み入る。

 ああ、年の瀬が近づいてきた。

 ああ、また会えるあの人と。


 もう鏡は私を写さない。

 早く来て。鏡が待ちくたびれているの。


 ※ ※ ※


 日に日に寒さが厳しくなり、鏡の曇りも酷くなる。

 それでもあの人はまだ来ない。


 待っているのは鏡だけじゃなかったの。

 わかってたけど、わかりたくなかった。


 もう大晦日も目前。

 年越しの時分に仕事をする訳もないから、もしかしたら来年になるかもしれない。


 時間が重たい。胸を押し潰す。


 ああ、決心したのに。

 晴れやかな気持ちは、また鏡のように霞んでしまった。


 ※ ※ ※


 師走の下旬。

 この地域では珍しいくらい雪が降った。

 もしかしたら、あの人は、雪で立ち往生しているのかもしれない。


 無事に辿り着いてくれれば良いのだけれど。



 翌日、陽が高くなるとチラホラと旅人が宿場町に辿り着いてきた。

 おかげで旅籠も忙しい。


 ひと段落ついた夕方間際。

 これから夕食の準備で慌ただしくなる僅かな間。


 独特の梅酢の香り。

 あの人の香り。

 気のせいと思いつつ、居ても立っても居られない。


 急いで玄関へと行ってみれば、待ちわびたあの人の背が見えた。

 磨き道具の入った木箱を背負ったまま小上がりに腰をかけ、草鞋を脱いでいる。


 私は、タライに湯を入れ、あの人の元へと駆け寄る。



 私に気が付いたあなたは優しく微笑み、気持ちよさそうに足を洗われている。

 私はゴツゴツしたあなたの足に湯を使い、汚れを落とす。


 冷たくなったあなたの足は次第に暖かくなり、代わりに湯が冷めた。


 あなたは礼を言うと、夕食の後においでと言い置き、部屋へと歩いていってしまった。


 ※ ※ ※


 まるで、つま先歩きをしているかのようにふわふわと現実味のないまま仕事を終えた。

 手鏡を急く気持ちとともに胸に抱き、部屋へと向かう。



 あなたは私の手鏡を受け取ると、愛しい子供をあやすように優しく包み込む。


 普通、金属鏡は研ぐと言うけれど、あなたは我が子の頭を撫でるかのような優しい手つき。


 ああ、どんどん綺麗になっていく私の手鏡。

 曇りは消えて、あなたの顔が鮮明になる。

 私は、なんて顔をしているのだろう。



 磨き終えたら、あなたとしばらく会えない。

 もっとこの時間が続けば良いのに。

 なぜこんなに早く時が経ってしまうの。


 このままでは、また三ヶ月、曇った鏡を胸に抱いて眠る日々。

 もう耐えられない。


 あなたの優しい手。

 私もその手に触れたい。暖かさを知りたい。

 それを知るのは、綺麗にしてもらえる手鏡だけ。

 

 言ってしまっていいのかな。

 言わない方がいいのかも。


 でも……その優しい手で頬を撫でて欲しい。

 あなたの暖かさを知りたい。



「あの! お話ししたい事が――」



 その時のあなたの笑顔は、今までに見た事ないくらい優しく笑ってた。

 私は恥ずかしくて下を向いてしまっていたから、あなたの手元にある手鏡から覗いただけだけど。



 想い鏡 了

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想い鏡 裏耕記 @rikouki

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