第1939話・年の瀬の商人
Side:宇治の商人
師走も残り二日。未だ売掛金の回収に走り回っておる者もおるが、それも済んだ幾人かの商人らと商いの話をしておる。
一時は恨みもした。古くからの慣例を破る奴らにはな。ただ、逆らい莫大な利を出すほど抜け荷をする覚悟などなかった故に、賠償をすることで許された者らだ。
「斯波と織田は皆を等しく扱うな」
「ああ、左様だな」
少し気が楽になったのは、神宮の様子を聞いたからだ。北畠様が尾張に倣い領国を変えようとしておることで騒いでおられる。
尾張と誼を深めており、横領された伊勢と志摩の神宮領を正式に手放すことを条件に、毎年莫大な額の寄進を手に入れておる。
されど、神宮も本来は変わることをあまり望んでおらぬところだ。近隣が尾張のように所領を廃し北畠様の下でまとめられると、残る神宮領は暮らしの格差で困るからな。
だが、北畠様も、もっといえば指南しておると噂の久遠様も、神宮だからとこれ以上の配慮は考えておらぬ様子。
己が力で生きていくならば、好きにしろ。道理なれど、神仏の権威とそれを求める者の配慮で生きておった者らに、今の世で左様な覚悟があるはずもない。
かつて織田尾張介様と久遠様が伊勢神宮を参拝した折、身重の者を助けたことがある。今では知らぬ者がおらぬ薬師の方様がわざわざ赤子を取り上げられた。
あれから幾年かなるが、尾張の噂と仏の弾正忠の名が相まって、ここらでは仏の弾正忠様を拝む者すらおる。
神宮の神職らが、それを聞いて恐れおののいたという話すらあるくらいだ。
尾張は決してやらぬ手であろうが、織田が神仏の名で動けば、寺社は面目も体裁も土地を治める口実もなにもかも失いかねぬ。
「従う者には寛大なのは事実だ。我らとてな……」
確かにな。我らが賠償する額は小さくない。されど、返済は生きてゆけるくらいに定められており、返済するための商いですら尾張商人組合により融通されたものになりつつある。
「首を刎ねたとて一文の得にもならぬというところか」
「久遠様ならばあり得ような。まさに商人の中の商人だ」
面白うないと言うたところで意地を張るほどの力も覚悟もない。従うしかあるまいな。最早、神宮すらあてにならぬ。
「堺や桑名よりはいい」
ああ、そうであるな。堺は今でも許されておらず、桑名は主な商人が同じ桑名の商人に討たれた。怯えず生きてゆけるだけで十分だ。
そう思うしかない。それだけだ。
Side:大橋重長
明日は大晦日か。数日前に織田家の政務は終わっており、津島でも警備兵と火消し隊などを除くと仕事はしておらず、年越しを待つばかりだ。
まあ、商人はまだ売掛金の回収に走り回っておるようだが。一昔前と違い、領内で売掛金の踏み倒しなど認めておらぬことで楽にはなったな。
今日も商いを続けて繁盛しておるのは遊女屋だけであろう。賦役民や多くの者が仕事を休む年の瀬と年始は、大いに繁盛しておるのだ。
医療奉行である薬師殿の指南により、他国の遊女屋とは様変わりしておるからな。
「父上、ここにおいででございましたか」
庭にて考え事をしておると、倅の勘七郎が探しにきた。
「いかがした?」
「はっ、本領で生まれた内匠頭殿の子が尾張に来ておるとのこと。いかがいたしましょう」
「そうか。なにか祝いの品を送らねばな」
今年最後の吉報だな。
「では、なにか贈り届けておきましょう。奥方衆も集まっておるとのことで食べ物などがよいかと」
「うむ、任せる」
ふとすっかり頼もしくなった倅に、思わず目を細めてしまったかもしれぬ。
「父上?」
「いやな。あの時、内匠頭殿に槍を向けておれば、いかになっておったのかと思うてな」
要らぬ欲を出しておれば、今頃わしと倅は地獄に落ちておったのやもしれぬと思う。
「内匠頭殿を尾張に迎えたのは父上の功でございますからな。それがなくば、桑名と津島は立場が逆になっておったのやもしれませぬな」
功か。いつからか、そう言われるようになった。戦が減り、戦以外の功も重んじるようになった頃からか、内匠頭殿を津島に迎えたわしが認められるようになったのだ。
左様なつもりなどなかった故に、少しおかしな気分だわ。
「勘七郎、油断するなよ。我らの敵は恐ろしき相手ぞ」
「承知しております」
負けられぬのだ。商いにおいてもな。久遠家の湊屋殿らと共に我が大橋家は商いから尾張を支えねばならぬ。
畏れ多いことであるが、朝廷とて気を許せぬ。
孫やその子の世のために。
Side:湊屋彦四郎
お方様がたが那古野に行かれたことで、蟹江の屋敷の留守居をしておる。
まあ、仕事はすでに終わっておるので、己の屋敷だと思いゆるりとするようにと命じられておるがな。
我が殿は役儀や仕事は頼むと口にされるが、休む時は確と命じる。当初戸惑うたが、今では慣れたの。
「相も変わらず凄まじい匂いじゃの」
縁側に火鉢を出してクサヤを焼いておると、風の冷たさとクサヤの匂いになんとも言えぬ心境になる。
ただ、炭火で焼けるクサヤの身を見ておると、腹の虫が待ちきれぬと騒ぐような気がする。
ほのかに脂が染み出て、炭にぽたりと垂れるのを見ておるこの時は、なんとも言えぬ心地良さがある。
どれ、少し味見を……。
「ああ、なんと美味しいものじゃ」
わずかな身をほぐして口に入れると、海と魚を昇華させたようなこの味がたまらぬ。クサヤの味と脂を口の中に馴染ませるようにすると、酒か飯が欲しくなる。
「父上、なにをされておられるのかと思えば……」
酒はまだ早いので飯にしようかと決めたところで倅が姿を見せた。
「ちょうどよい、そなたも共に食うか?」
「いえ、先ほど昼餉を頂きましたので」
それは残念じゃの。家人に飯を持ってきてもらい、熱々のクサヤと共に食う。
おおっ!? これじゃ! この味じゃ!!
飯の甘さとよう合うのじゃ。塩加減がたまらぬのう。やはり殿から頂戴した品は別格中の別格だ。
ああ、美味い。なんと美味いのか。この時のために生きておると思える。家人が気を利かせて持ってきた大根の漬物と味噌汁もよう合う。
「年の瀬でございますし、お止めしませぬが、ほどほどに願います。父上は未だ御家にとって欠かせぬお役目でございます故に」
「わしの代わりなどおる。それにそなたが継がねばならぬ身であろう?」
飯の最中に無粋な倅じゃの。
「それは分かっておりまするが……」
「わしも分かっておる。今しばらく生きて殿の築かれる世を見てみたいからの」
死に急ぐことなどせぬ。されど……、美味いものも食いたい。
「父上、一杯で十分でございますよ。夕餉も召し上がられるのでございましょう?」
真面目な倅じゃの。慶次郎殿ほどとは言わぬが、もう少し生きるのを楽しめばよいと思うのじゃが。
致し方あるまいか。今は一杯で我慢するか。
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