第1912話・それぞれの秋
Side:太原雪斎
この体が今少し良ければ……。
武芸大会における武田との因縁の件が漏れ伝わると、そう思わざるを得ぬ。未だに理解しておらぬ者が多すぎる。かつてないほど厳しき世が訪れようとしておるということを。
所領を失った武士がいつまでも安泰であるはずがない。血縁、氏素性を好まぬ久遠家の本質を思うと、愚か者をいつまでも厚遇するほうがおかしい。
血筋と権威を誇る公卿でさえ居場所があるのか分からぬというのに。
戦することを求められぬ武士が、今までのように己の力を誇示し生きられるはずがなかろう。久遠の治世は万人から苦しみは減るであろうが、民を苦しめて我が世を満喫するような愚か者には厳しい。
「和尚様?」
「なんでもない。お勤めを続けよう」
拙僧の今は、与えられた屋敷で静かに祈りの日々だ。時折、相談事に訪れる者の相手をし、学校にて若い者らに教えを授ける。ただ、それだけ。
無論、やろうと思えば助言など出来るやもしれぬ。されど、それが御屋形様と御家のためになるのか。そう問われると分からぬとしか言えぬ。
年寄りがいつまでも出張っては、若い者が育たぬ。これからの世を生きるのは若い者なのだ。奇しくも学校にて教えを授けることで、拙僧もまたそれを学んだ。
見届けるしかあるまい。残りの余生をただ静かに。
Side:奥羽の坊主
「なんと頑固な女だ」
同じ寺の坊主の一言に少し考えさせられる。頑固なのか? 寺社が愚かなのか。いずれであろうな。
「寺社と坊主と神仏はすべて別物である。尾張者はそう言うて憚らぬとか」
「なんと驕っておるのじゃ。今に仏罰が降るぞ」
いつまでも意地を張り、我らの面目を潰した女に不満が募っておる。されど……。
「左様に言う者は今までも多くおったであろうな。尾張や近隣の寺社でな。一向宗である三河本證寺は跡形もなく潰され、真宗である伊勢無量寿院は争った僧侶が日ノ本の外に追放されたとか。その仏罰はいつ降るのだ?」
久遠とやらが仏罰など恐れておるようには見えぬ。さらにまことに仏罰が降るかすら怪しいところだ。仏の道を外れた者など世に溢れておるのだ。仏罰が降るならばこの世から人が消え去っておるわ。
奴らは寺社の助けなく領国を治める術がある。それだけではあるまいか?
「……この場で言うくらいはいいではないか」
「決して外で漏らすなよ。まとめて日ノ本から追放されるのだからな」
皆のため息が重なった。勝てるとは誰も思うておらぬ。代官という女だけではないのだ。楠木が不退転の意思を示して、愚か者どもをことごとく討ち取ったのは周知の事実だからな。
余所ではいくつかの寺社は総本山に助けを求める使者を出したと聞き及ぶが、それも仇とならねばよいがな。
ともかく我らは当面大人しくしておるしかあるまい。幸い、商いまでは禁じられておらぬのだからな。
Side:蒲生賢秀
多くの民が働く様子を見ていると、世が変わるのだと分かる。復旧した田畑などを織田農園とすることを条件に尾張より銭を借り受け、以前から尾張流賦役を続けておるが、確実に民の働きが違う。
税としての労が悪いとは言わぬが、働けば食うてゆけるとなると働きが違うのだ。争うておった近隣の村との関わりも、賦役を通じて共に働くことで変わることもある。
なにより……。
「仏の弾正忠殿は正しき者の味方なのかもしれぬな」
六角には仏はいない。それが織田との違いだ。されど、織田に倣い同じことをする。それだけで従う者がおることに驚きを隠せぬ。
無論、今はまだ数少ない。だが、尾張では上手くいっておることだとなると、確実に異を唱える者が減る。
神仏の名を騙る坊主を信じずとも、仏の弾正忠は信じる者が近江にでさえ出始めたのだ。花火や武芸大会、それらを見た者が己の故郷に戻り伝えることで信じておる。
寺社は左様な世の流れに震え上がり、商人らが西に行かず東に行くようになると、西と東、いずれに倣うか。最早、誰の目から見ても明らかだ。
贅沢をしたいわけではない。飢えずに暮らしたい。それだけだからな。民が願うのは。
この近江御所が出来れば、六角家と近江は変われる。
かつて都があったと聞き及ぶ大和の国のように、古き良き国だと言われて廃れるなど御免だ。畿内と共に沈むわけにはいかぬのだ。いかんとしてもな。
Side:久遠一馬
尼僧様はお昼を召し上がってお帰りになられた。正直、あとは珍しいものとかないし。
「温室はみんな見たがるね。まあ、見られても困らないからいいけど」
実は与える刺激が強いから公家とかには見せてなかったんだけどね。義輝さんがお母さんに理解してほしいと、頑張っているのを見ていると駄目だとは言えなかった。
温室自体が脅威になるものでもないことで、構わないと判断したのもあるけど。真似したければすればいい。この時代だと板ガラスを作るのすら苦労をするから、技術や費用を考えると無理だろうけど。
オレはセレスとの子であるディアナとパメラが産んでくれた子の世話をしつつ、名前を考えている。迷信とか信じるわけじゃないけど、幸せになってほしいからな。どんな名前にするか。毎回悩むんだ。
「私たちは動けないものね。難しいわね」
お清ちゃんとの子である武護丸と、かおりさんとの子である武昌丸、千代女さんとの子である武光丸は、すでに歩けるようになっている。ただ、数ヵ月産まれたのが遅い武光丸はまだ危なっかしいけどね。
メルティがそんな三人に甘えられつつ答えてくれた。
偉くなるとほんと動きにくくなる。近衛さんみたいに、周囲や下の者への影響を仕方ないと割り切って動けばまた違うんだろうけど。
ただ、公卿とか歴史的に見ると、ほんと信じていいとは思えないところもある。力を取り戻すと必ずこちらを討ってでも従えようとするだろうし。
強かだけど、あまり見習うべきやり方じゃない。
「あ~う~」
おしめを取り換えてあげると、ディアナはご機嫌な様子で手足をバタバタとさせた。抱っこしてほしいのかなと抱き上げると嬉しそうに笑ってくれる。
菊丸さんは見せたかったのだと思う。ウチの親子という形を。
自ら子育てをせず、子供同士が争うために寺社に入れてしまう足利家とまったく違うからね。
「オレたちが動かなくても、動くべき人が動く。十年前と変わったね」
「ええ、それが人の社会だと私も学んだわ」
立場、役割はその時々で変わる。
尾張の皆さんは当然として、菊丸さん、いや、義輝さんもまた頼もしくなった。難しい立場を理解しつつ、強かに動いている。
最後の将軍。それがもったいないと思えるほどに。
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