第1908話・恨み

Side:山科言継


「人の欲とは恐ろしいの」


 静かな夜じゃ。今宵は気心知れておる丹波卿と飲んでおる故、ついつい愚痴をこぼしてしまう。


 内裏も修繕され、仙洞御所もある。ようやく主上や院が心穏やかになろうというのに、愚か者どもがあれこれと不満を口にする。


 かつて幾度も都を焼かれた頃は、穏やかな日々さえあればそれでよいと言うておった者も多いというのに、今は尾張が憎いと不満を隠しもせぬ。


 臣下がこうも堕落し穢れておると知った院と主上の御心痛は察して余りある。


「寺社とて変わらぬものぞ。薬と称して肉を食らい、般若湯などと称して酒を飲み、平然と女を抱く。いささか体裁を気にする者とて衆道に走る。そればかりか、誰ぞが出世すると妬み嫌がらせをする。穢れなき者など会うたこともないわ」


 穢れておるのは寺社も同じか。吾らはなるべくして朝廷を貶めたのかもしれぬの。


「仏に見捨てられたのかもしれぬの」


 弾正や内匠頭がまことの仏だとは思わぬ。されど、あの者らは仏の意により天命を背負いし者ではと近頃思うようになった。


 地下家の者が近江に出仕し、ようやく変わるかと思うたが、残る者は相も変わらず不平不満ばかり。


 いつも己が利ばかり押さえる近衛公への不満も多いがの。大樹が近衛の娘を正室に迎えることを拒んだと知ると、近衛公への風当たりが強うなった。


 近衛公がいずこまで察しておるか分からぬがの。あの御仁は己より下の者を軽んじる癖がある。主上と院のお心が公卿から離れつつある今、大樹の庇護を失って危ういのは近衛公かもしれぬ。


「困るのは誰であろうなぁ。寺社はすでに大樹と尾張を認めておる。少なくとも武衛、弾正、内匠頭が揃うと分が悪いのは明らかなのだ」


 ああ、そうかもしれぬの。寺社は依然として穢れておっても変わりつつある。表立って攻められておらぬ以上、争おうとする者がおらぬのだ。


 それが内匠頭と大智の策だと知ったとて変わるまい。


 地下家もまた変わりつつある。近江に出仕した者で戻された者はわずか一名。もう少し荒れるかと思うたが、多くが武士の下で働き出した。


 危ういのは公卿かもしれぬの。世の流れを未だ認められぬ者が多い。


 吾も同罪じゃの。考えもせなんだことじゃ。朝廷と公卿公家が別なのだと。武士らは昔から左様に見ておる者がおったであろうに。


 倅にはよう言い聞かせておかねばならぬの。


 もう愚か者どもが願うような世にはならぬ。公卿のために朝廷があり世が続くのではない。朝廷のために公卿があり、世のために生きねばならぬのだ。




Side:久遠一馬


「ケイキ、ありがとうございまする。これで両家も、世の流れと御家の苦労を理解したはず」


 小笠原さんがウチを訪ねてきた。先日あった小笠原さんが武田と今川を招いての茶会に際し、なにかウチが作ったと分かる菓子がほしいと頼まれたのでケーキを届けたんだよね。そのお礼も兼ねた報告に来てくれたらしい。


「大変でしたね。ご心中お察し致します」


「譲位の際の三関の件など、許しを得ぬままいくつかの内情を話してしまいました。申し訳ござらぬ」


 らしいね。どうなるかとシルバーンのほうで監視していたようで、茶会の様子は知っているんだけど。


「構わないと思いますよ。そろそろ隠す意味もありませんし。織田家やウチが我が世の春だと安易に思われるよりよっぽどいいです」


 こういう言い方をすると失礼になるかもしれないけど、人を諭すのが上手いなと感心した。一度地獄を見た人の強さというべきなんだろうか?


「人とは勝手なものでございますからな」


「ええ、まったくです」


 この件は因縁を今後どうするんだと、みんなで考えるきっかけになった。


 関わりたくないのは第三者に共通した意見だけど、以前のように自分の領地で暮らして顔を合わせないならばそれでよかった。


 ところが今では尾張で因縁ある者たちが頻繁に顔を合わせる。当人同士で勝手に争うなら好きにしていいとしか思えないけど、問題を起こすと関わる人や周囲が罰を受けるからと気を使うことが増えたことが理由だろう。


 それが一年も二年も続くといい加減にしろとなる。


 菓子をウチに頼んで、織田家の意思を示す。これ小笠原さんの策なんだよね。オレや織田一族が出ていくと、今後も因縁があるたびに仲裁に出向かないといけなくなるし、それを破るようなことをすると厳しく罰することになる。


 そういうことを避けるためにもオレたちはあまり動けなかったんだ。


「わしが言うてよいことではないが……、臣従の際に因縁を忘れるように当主のみならず主立った者すべてに誓紙を出させねばならぬと思う」


 因縁を表に出さず働く。小笠原さんの評価が高い理由でもある。ただ、そんな小笠原さんですら僅かに憎しみの欠片が胸の奥にあるのは感じる。


 しかも、当主が決めたことに下の者たちが素直に従わないんだよね。これ、何処も同じだ。例外は家として確立して新しいウチくらいだろうか。


「そうですね。私もそれは必要だと思います。今後、広がりそうなところを見ると特に……」


 武田と今川、これ当主と主立った人はほんと理性的に頑張っている。ただ、下の者たちが争わず意地を張ることは続いていたからなぁ。


「内匠頭殿はご自身がおらぬようになっても困らぬ形を作りたいとか。ならば尚更、周囲の者が触れられぬ因縁など残してはならぬかと」


 ほんとその通りだと思う。余所様の因縁について献策で止めようとすること自体、誰も積極的にならない。触れてはいけない聖域のように残りそうな懸念があったんだよね。


 意地も張れないのかと怒る人もいるし、意地くらいは張らせてやれという人もいる。人の考えなんていろいろだ。


「よければ、わしのほうから評定に上げるが……」


「お願いします。大殿と守護様には私から申し上げておきますので。ただ、よいのですか?」


 そんな中で自ら動いてくれる。助かるんだけど。いいんだろうか?


「わしが武田と今川を恨むのは今も変わらぬ。故に思うところがある。恨み、因縁を軽んじて捨て置くことは危ういとな。左様な両家故に、因縁など許さぬという形を作ることをわしの手で成したいと思う。それが御家のためになるならば、構わぬのであろうとな」


 オレの顔色から察したのだろう。あまりに素直に余所では言えない本音を明かしてくれた。これもこの人の生き残る術であり、知恵なんだろうな。


「よろしくお願いいたします」


 当人たちだって扱いにくいのが因縁だからね。そういう社会風潮を消していく努力が必要だ。義統さんや信秀さんも反対はしないだろう。


 しかし、家臣が増えるといろんな人が出てくるね。オレも勉強になるな。



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