第1878話・とある男の一年
Side:真柄直隆
秋か。野分により伊勢の川が決壊したと騒いでいたが、それも数日で聞かなくなった。なんでも兵を送って助けているって話だがな。
オレは今も尾張にいる。正しくは今年の春に一度越前に戻ったが、父上と朝倉の殿に会ってすぐに尾張に舞い戻っている。
朝倉の殿からは、思う存分鍛練しろというお言葉をいただいた。
朝倉家中は相も変わらず斯波家を敵と見ておるようで呆れたが、朝倉の殿は戦って勝てる相手じゃないのを理解している。俺にはそう見えた。
拝謁した後、内々に呼ばれた席では宗滴のじじいの様子を聞かれた。いかに答えるか迷ったが、偽る理由もない。もう戦に出るのは難しいと伝え、かつての様子とは違い穏やかな顔つきとなったとあるがままに申し上げると安堵されたようにお見受けした。
「おお、十郎左衛門か。よきところに来たの」
尾張では鍛練の日々だが、時折宗滴のじじいのご機嫌伺いに来ている。理由はない。このじじいがなにを考えているか。少し学びたくなっただけだ。
今日も笑みを浮かべてオレを迎えてくれたが、ここで暮らす孤児らと畑仕事をしておったらしい。少し汚れた着物にもあまり気にした様子はなく、姿だけならば農作業をする民のようだとさえ見える。
「武芸大会も近い。いかがじゃ?」
「よき鍛練を積んでおります。ただ、今年は槍と馬上槍など出る種目を増やしてみてはと言われておりまする。某の体格と技ではそちらのほうが向いておるとも」
「ほう、武芸大会には武芸大会なりの向き不向きがあるか。戦場ならばまた違うのであろうがの」
越前のことを聞かれることはまずなく、オレから申し上げることもない。
斯波に頭を下げたくない者の中には、若狭管領や細川京兆と誼を深めるべきだと言うておる者もおると聞く。ただ、朝倉の殿は聞き流しておるだけのようだがな。
「そうじゃ、宮川堤の件は聞いたか?」
「はっ、なんでも一万もの兵を出したとか」
じじいにはオレの考えておることなど筒抜けだ。来れば尾張と諸国の様子を話して聞かせてくれる。しかも牧場村の屋敷から出ることはあまりないというのに、尾張と諸国の動きはオレより早く聞いておる時すらある。
じじいが凄いのか。久遠が教えているのか知らねえがな。
「これは先例から見るとまずあり得ぬことじゃ。他国に一万もの兵と水軍を助けとして出すなど。常ならば他国の兵に領国を見られるのを嫌がる。仮に同盟を結び信があったとしても、他家に頼るとなると面目が立たぬなどと騒ぐからの」
ほう、そう見るのか。北畠家は大御所様が蟹江におられ斯波家の若武衛様に養女も嫁がせたはず。それでも驚くべきことだということか。
「もう今までの政と同じと思うてはならぬ。斯波も織田も北畠も六角も、見ておる先は同じであろう。世を変えてしまう気なのじゃ。なにがなんでもな」
「最早、敵はおらぬとお見受け致しますが……」
「甘い。そなたも少しは世が見えるようになったが、甘いわ。生き残ろうとする必死さは他国より上ぞ。特に尾張者の必死さは日ノ本一と思うておけ。今を逃すとすべて奪われる。尾張者は皆が理解しておるわ」
奪われる? 敵なしの尾張が? 畿内が総がかりでも五分以上に戦えよう。特に海はいかがするのだ? 久遠がこの地に来て十年と聞くが、未だに敵となり得る者はおらぬと聞くほど。
「敵は誰であろうな。武士か、朝廷か寺社か。もしかするとそのすべてかもしれぬ。世を覆そうとしておる。少なくとも畿内からはそう見えよう。源頼朝公すら成し得なかったことが始まっておるのじゃ」
世を覆す? 左様なことを望むのか? 内匠頭殿が。己が力ですべて成せるような御仁ぞ。
「ふむ、言い方を変えようかの。尾張の富や力、久遠の知恵や技。欲しておるのは誰ぞ? 内匠頭殿と奥方衆がおる今は手を出すまい。されど、次の世代は? その次は? 左様な懸念を残すと思うか? そう思うならば、そなたはまだ世を知らぬのだ。誰であれ、己が一族と家で成したものを奪わんとするならば戦う。それは尾張も久遠も同じぞ」
背筋が冷たい。この国はかようなことを見ておるのか?
「今日はこのくらいにしておこうかの」
「はっ、ありがとうございまする」
朝倉を守っていたのはじじいなんだ。ここまで世を見通さねば守れぬということか。
強ければ強いなりの恐れや懸念があるか。生きるとはなんと難しきことか。
Side:朝倉宗滴
「殿、真柄の悪童が一端の武士の顔をするようになりましたなぁ」
近習に声を掛けられ、わしも思わず熱が入っておったなと思う。
「そうじゃの。だが、まだまだじゃ」
悪童と呼んでおった頃が、つい先日のように思える。されど、年月は過ぎておるか。
すでに十郎左衛門は越前におる者らよりも世が見えておる。それ故、話して聞かせる話がより難しきことになりつつあるの。
無骨者かと思うておったが、飽きもせずまた話を聞きに来る。
「越前の者らは、未だ理解しておらぬのでございましょうな」
故郷を思うのか、近習が少し悲しげに越前がある方角を見た。
理解しておるまい。しておれば、すぐにでも斯波家に頭を下げて因縁を終わらせるべきじゃ。今ならば腹を切ることもなく、家は残るはずじゃからの。
小笠原、武田、今川。かの者らが格下である織田に降ったわけを本気で考え受け止めぬことが、越前の者らの愚かさの証と言えよう。
内匠頭殿のおかげで尾張と越前の商いが上手くいっておることも、殿のお立場を思えば良きことではあるが、朝倉家の先行きを考えると愚か者に世の流れを見えなくしておる一因とも思える。
半端に利を得て豊かになっておることで、己らが間違っておることに気付いておらぬ。
「そなたや十郎左衛門のように若い者には、生きて次の世を見てほしいのじゃ」
今のわしに出来ることは多くない。教えを求める十郎左衛門に知りうることを残し、尾張の地で余生を過ごして天寿を全うするのみ。
僅かでも因縁を軽うして、斯波と織田の下で生きるという些細な先例となる。それしか出来ぬ。
「殿……」
さて、そろそろ仕事に戻るかの。冬を前に仕事はまだまだある。
戦には二度と出られまいが、これはこれで面白うての。やめられんのじゃ。
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