第1852話・Uターン

Side:とある公家


「これだから下賤な者は嫌なのじゃ。都に帰りたいの」


 ああ、また始まった。口を開けばかような愚痴ばかり。帰りたければ帰れば良かろうに。誰も止めておらぬのだからな。


 予め教えられておったことであるが、吾らは名のある役職を得られるわけではない。奉行衆らの下で働くだけの役目。それが気に入らぬらしい。


 近衛公からは、おかしなことをすると戻る場などないと思えと厳命されたのだがな。かの者を遣わした九条家は違うらしい。


「織田やら久遠やらと氏素性も定かではない下人であろう。何故、かの者が大きな顔をしておるのか」


 己の境遇を嘆くだけならばまだよいが、そこにあまりに危うい名を口にしたことで、周囲の者が逃げるように離れるのが分かる。


「ふん、護国などと称する叡山とて吾らから奪うのだ。今の世で糧と役目を与えてくれるならば、誰でもよいわ。己の愚かさを示したいなら他でやれ。巻き添えにされとうないわ」


 皆が離れて面白うなさげな男は吾らを睨むが、最年長の者が睨み返すとさすがに言い過ぎたと思うたのか口を閉ざした。


 左様であろうな。思うところは誰もがあろう。院や帝、堂上家から寺社に至るまで。不遇の地下家に手を差し伸べる者はまずおらぬ。


 荘園も屋敷もすべて叡山に奪われた者すらおる。かの者らが仏の総本山を称するこの世には、まことの神仏などおらぬのではないかとさえ思えるほどなのだ。


 かの者らを信じるならば、僅かばかりの体裁を重んじて飯を食わせてくれる、仏の弾正忠を信じたほうがよいとさえ思うほどよ。



 その時だった。奉行衆のひとりが、吾らが働く場に姿を見せたことで静まり返る。


「至らぬばかりで申し訳ございませぬ。早速ではございますが、明日にでも京の都にお戻りいただきまする。無論、すでに支度は出来ております。ご案じ召されるな」


 先程まで騒いでいた男の顔色がみるみる悪うなる。


「誰も左様なこと言うておらぬ!」


「堂上家とは話が付いております。近江が合わぬ者は戻してよいと。貴殿の先ほどからの言いようは、我らの手に余りまする。上様のお耳に入れば、この場の皆様方を戻せと仰せになるか、罪人として捕らえることとなってもおかしゅうない」


 そのまま男は兵に囲まれるように連れていかれてしまった。


 近江に来て以降、暇さえあればああして危ういことを放言しておったのだ。当然のことであろうな。誰一人庇う者などおらぬ。


「ああ、今宵はささやかではございますが宴の用意をしております。思うところはおありでしょうが、良しなにお願い致します」


 誰も好き好んで今があるわけではない。奉行衆の者もそう言いたげであるな。


 流れるまま、流されるまま生きるしかあるまい。愚か者にはなりとうないからの。




Side:久遠一馬


 夏も終盤だ。子供たちと山に出かけるなど思い出を作ることもしつつ、仕事をこなしている。


 いろいろと状況が変化しつつある。蒲生さんの口利きで、保内商人と八風街道や千草街道の今後を話す場を設けることとなった。内々ではあるが、条件次第では優先通行権の放棄も含めて覚悟があるようだ。


 比叡山延暦寺が敵対することを避けていることもあるし、東海道と東山道の整備が進んでいることで将来的にあそこの価値が上がることはないと踏んだのだろう。


 御所造営がなければ、あと数年は様子を見たのかもしれないけどね。足利家と六角家が尾張流賦役により御所や詰め城や町を造ると知ったことで、少なくとも尾張との同盟関係が当面堅持されることが誰の目から見ても明らかになったからかもしれない。


 他にも近淡海と言われる琵琶湖の湖賊や大津の町など、主要な勢力は御所造営関連で動き出した。


 畿内や大津、それと湖賊をあてにしない形での御所造営には驚きを見せつつも、僅かでも利を得ようと必死だ。


 義輝さんの権勢が強いこともある。最初から対抗しようというよりは、その中で利を得たり権威を得ようとするのが自然ではあるんだよね。


「いい加減、畿内を中心に動かないこと。気付かれつつあるね」


 今日はエルたちや資清さんたちと御所関連の情勢分析をしているけど、こちらの構想が知られつつあることが各種報告から明らかだ。


「当然よ。ただ、どう対応していいか分からないだけね」


「そうですね。そもそも畿内と外を分けて考える者もおりますが、近江、伊勢、尾張、美濃は、決して侮れる地ではないと知られていることですから」


 メルティとエルの言葉からも分かるけど、知られて当然なんだろうね。


 鄙の地、鄙者。いわゆる田舎、田舎者と馬鹿にすることが多いけど、京の都や畿内はそんな地方から品物と富が集まるから中心だっただけだしね。


 潜在的な国力で考えると近江以東がまとまると対抗出来なくもない。まして畿内に頼らぬ発展の形がすでに出来ているし。


「こうして見ると、六角家と北畠家がお味方というのが大きゅうございますな」


 地図を広げてみんなで相談しているんだけど、太田さんが唸るように南伊勢と近江の位置を見ていた。


 確かに両家の存在は国力以上に大きい。そもそも国力で見るのは、織田家とウチを除くとほとんどしていないんだろうけどね。


 地域の安定という意味では、織田とウチの新興勢力の一強よりは断然信頼感が違う。


「材木など必要な品を高値で売ろうとしておる者らも僅かにおりまするが、数は多くありませぬ」


「こちらで商いの値上げをされたら困ると理解しているネ。あちこちに融通した甲斐があったよ」


 一方、湊屋さんとリンメイは商いから御所の件を見ているが、オレたちが尾張に来た頃に経験したえげつない商いを思うと、今のところ冷静な動きのようだ。


 物価の安定が地域の統治に及ぼす利点を再認識した者たちも多いんだろう。誰だって領内が荒れるのは困る。織田領とそれ以外の物価の格差は仕方がないとしても、敵対すると締め上げられ統治に困るほど乱れるのはさすがに理解したか。


 良銭、供給元がこちらだという強みは今でも大きいけど。


 そこまでモラルが上がったわけではないものの、堺や里見という前例もあっておかしなことをすると面倒になること。買占めや値のつり上げなどしない限り、こちらが容認すると理解したのもありそうだね。


 そもそも義輝さんの名前で動く案件だ。よほどおかしなことをしない限りは爪弾きにすることもない。


 そういう意味では、各勢力とも上層部は相応に理解してくれている。中堅や末端の過激な人は別だけど。




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