第1837話・消えゆくものをまえに

Side:楠木正忠


 こうして空を見上げておると尾張を思い出す。遥か西の空でも同じく花火を上げておるはず。日ノ本でもかようなことが出来るのは久遠しかあるまいな。


 あれから一年と半年ほどか。わしは今もお方様付きの与力としてこの地におる。昨年の末には戻りたければ戻すと言うていただいたが、神戸殿が残るということもあってわしも残った。


 普段は八戸根城にて、武官を率いて奥羽衆のとりまとめなど諸事をこなしておる。


「なんとも良いものだな」


 花火はよいな。これならば祖先の下にも届いておるのやも知れぬと思える。


 我が祖先だけはいつまでも許されぬことで、いかほどの苦しみがあったか。南朝方として戦ったのだぞ。にもかかわらず、何故、我が祖先だけかような扱いを受けねばならぬのだと憤り抱えた日々であった。


 汚名をそそいだのは、祖先と関わりのない決断からであった。


 織田への臣従。思うところがあったが、北畠家として織田と争う気もなく神戸家共々臣従を望まれれば断れぬ。


 正直、許されるとは思うておらなんだ。左様な願いを申し上げたこともない。にもかかわらず、あっさりと祖先の汚名がそそがれた。


 今にしてみれば分かる。織田が朝廷に願い出てくれたのだ。あの日は一族郎党、皆で喜び涙を流しておった者すらおる。


 そして今、左様な朝廷と織田の関わりが怪しくなったのは、ここ奥羽にも聞こえくる。尾張からの船があれこれと知らせを届けてくれる故にな。


 森殿から少し前に、御家の立場に僅かでも懸念があるのならば尾張に戻れるようにすると内々に言われたが、わしを含めて戻った者はおらぬ。


 朝敵という祖先の汚名が頭をぎったが、なればこそわしが御家を支えていかねばならぬとさえ思うた。


 なによりわしは受けた恩が大きい。斯波家は左様なことにはなるまいが、織田と久遠はいささか危ういのではと思うところもある。上手くいかなくなった折に詰め腹を切らされるのはいずれかではと思うのだ。


 左様なことを考えつつ夜空を見上げておると、久遠の侍女らが主立った者に新しいなにかを配り始めた。これは……。


「さあ、溶けないうちに食べて。お酒もいいけど、この氷菓子もなかなかのものよ」


 お方様の言葉に奥羽衆が信じられぬと固まったように動かなくなった。無理もない。遥か東のこの地は冬には雪深いが、それでも夏であるこの時期に氷菓子などあり得ぬ。


「これは、尾張でも滅多に食えぬ馳走でございますなぁ」


 牛の乳の氷菓子。久遠家では南蛮由来の言葉でアイスというとか。作り方も織田家の料理番と久遠家しか知らぬ秘中の秘。浪岡殿らもさすがに驚いておるわ。


「まあね。でもいずれ、私たちの子孫は花火を見ながら当たり前のようにこれを食べられるようになるわ。それが私たちの目指す先のひとつよ」


 かつてわしもあの者らと同じ顔をしておったのかと思うとおかしく思える。お方様は左様なわしの言葉に誰もが驚くべきことを教え説いた。


 本気なのだ。久遠家の方々は。本気で日ノ本を豊かにしようとしておる。故に多くの者が従う。


 織田家臣であるわしとて、この命を懸けてもよいと思えるほどだ。


 お方様はこれを我らだけでなく、諸勢力の名代らにまで振る舞われた。今頃かの者らは驚きひっくり返っておるかもしれぬな。


 これで従うてくれればよいのだが。従わぬならば……、修羅と化しても従えてみせようぞ。


 それが正成公の汚名をそそいでくれた我が楠木家のすべきことだからな。




Side:足利義輝


 あれから母上は口を開かれず、ただ、無言のまま打ち上がる花火を見ておる。


 静かに見ること自体、おかしなことではない。されど……、生き方。生きる道が違うのだと改めて思い知らされた。


 突き詰めると世の安寧など、二の次なのだ。尾張以外の者らにとってはな。母上や公卿がおかしいのではない。それが常でありすべてであったのだ。


 一馬、エル。いかにすればよい? オレでは母上に光明を見せることが出来ぬ。


「菓子をお持ち致しました」


 花火であっても母上に届かぬのかと思うた時、天の助けが、いや久遠の助けが届いた。


「これは……」


「久遠の氷菓子だ。一馬はアイスと言うていたな。溶けぬうちに食せ」


 母上であっても驚かされたようだな。滅多に見せぬ顔をしておるわ。


「……甘い」


 ゆっくりと匙を運び、一口食すとさらに驚いた。当然であろうな。このなめらかで優しき味は他では決して食えぬもの。オレは幾度か一馬に食わせてもらったがな。


「花火やこれが久遠の知恵の一端になる。争い人を従えるばかりでない。人が生きる。皆が明日に夢を持てる知恵」


「それが、菊丸として学んだことですか」


 夏に氷菓子を食いながら花火を見る。これ以上の贅沢はあるまい。共にすぐに失われるもの故、儚く心に強く残る。


 オレは、この氷菓子が一馬たちの助言のように思えた。


「母上も一介の尼僧となってみまするか? 御所や城からは見えぬものが多くある。見ねば分かりませぬ。それはお分りいただけたはず」


 近衛も足利も一度忘れてみてはいかがかと思えた。弾正、一馬、そなたらがオレにくれた菊丸としての暮らしを母上にも見てほしい。


「左様なこと許されるはずも……」


 そう、許されぬはずであった。近衛殿下とて、辞めると言い出したオレを止めるための苦肉の策であったはずだ。あの時、身分も名も捨てた暮らしを将軍より気に入ると悟っていたのは、一馬とエルだけであったのかもしれぬ。


「某が許しましょう。誰がなんと言おうと、母と子。某が責を負い、共におりまする故」


 見上げると、綺麗な青い花火が咲き誇った。なんと見事な花火であろうか。


「これも定めかもしれませんね」


 その一言を最後に母上はまた無言となられた。定めか、それもあるのかもしれぬ。足利の世は終わる定め。オレはそう思うておる。


 親不孝かもしれぬし、祖先には許されぬことなのかもしれぬ。


 されど、今しかないのだ。今しかな。


 ちらりと見える母上の横顔は、ここしばらく内々の者だけに見せていた不満げな様子ではない。ただ、この花火と氷菓子を楽しんでおられるように見えた。


 いつか、将軍職を辞したら、母上とふたりで暮らすのもよいかもしれぬな。家も地位も忘れて母と子として、ゆるりと太平の日々を生きても良いかと思える。


 花火と氷菓子は消えてしまうが、親と子はなにがあろうと変わらぬものだ。


 そうであろう? 一馬。





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