第1834話・初夏のこと・その三

Side:小笠原信定


 尾張の花火見物から戻ると、忙しい日々だ。北信濃も大人しく、信濃はかつてないほど穏やかになっておる。


 寺社の中には相も変わらず不満を持つ者もおるが、寺領を手放しておらぬところで飢えから民が逃げ出してしまい騒ぎになる程度だ。


 民を返せと騒いだところもあるが、お方様は逃がしたくないなら逃げぬように治めよと言うて終わりとなる。


 ここ信濃の寺社は幾つかの形に分かれておる。寺領をすべて放棄して確と臣従したところと、寺領は維持するものの関所と守護使不入を廃して品物の値を合わせておるところと、今までと変わらず治めておるところだ。


 上手くいっておらぬのは寺領を持つ者らだ。やはり織田の賦役は民にとってなにより大きい。今のように夏場の飢える時期も領内では飢える者などおらず、賦役に出れば飯を食えるのだからな。


「またか。愚か者とは減らぬものなのだな」


 左様な民より愚かなのは武士や坊主の端の者だ。かつての己の所領だったところで勝手な振る舞いをして捕らえられる者が後を絶たぬ。


「いかが致しましょう」


「警備兵に預ける。佐々殿が上手く使うてくれる」


 お方様に裁定を仰ぐほどでもない者はこちらで裁き、警備兵預かりとなる。使い潰しても惜しくない者だ。難所の賦役などに使うておるそうだ。


 信濃において絶大な力を持つ者は三名おる。夜の方様と明けの方様。そして佐々殿だ。


 以前にはたいした家柄でもないと佐々殿を軽んじたことでお方様のご不興を買い、信濃から他の領国に送られた者すらおる。


 当人は新参も古参も分け隔てなく扱う気のいい男なのだがな。


「お方様、ここにおいででございましたか」


 少し気になる報告書があったことでお方様のところに行こうとしておると、城内の畑にお方様がおられた。ここ松尾城はわしの元居城。勝手知ったるところだが、今では空いたところに畑があるなど様変わりしておる。


「あら、いいところに来たわね。ひとつ食べる?」


「はあ、いただきまする」


 赤実、久遠家ではトマトと呼ばれる実を頂くと、そのまま丸かじりする。瑞々しさがあり酸味と甘みがちょうどよいな。


「愚か者がお方様に呪詛を掛けているという報告がございまする」


 人とはなんと愚かなのだろうか。今の信濃の穏やかな暮らしは織田とお方様がたのおかげだというのに。憎しみで見えておらぬ者が未だに多い。


「目を離していないんでしょ?」


「はっ、端の者がお方様の御身を案じて逐一知らせておりまする故……」


「ならそのまま見張らせて。ただし褒美は多めにね」


 しばらくお仕えして分かったことがある。お方様がたは坊主や神職をあまり信じておらぬことだ。祈禱も呪詛もな。呪詛をかける愚か者に仕える下男ですらお方様を案じておるというのに。


「なにかあらば……」


「信じることは大切よ。でもね……、神仏は正しき者の味方よ。きっとね」


 強いお方だ。小心者ならばすぐに兵を挙げてもおかしゅうないというのに。


 兄上、信濃は変わりつつありまするぞ。


 小笠原家が守護に戻ることは二度とないかもしれませぬが……、されど、武田や今川に乗っ取られることもなく、皆が新たな治世を生きておりまする。




Side:久遠一馬


 夏だ。尾張では熱田の花火のあとも津島の花火があるので、引き続き留まっている旅行客がいるようだ。


 領内、とりわけ尾張・美濃・三河・伊勢あたりは安定している。人口増加は相変わらず続いているものの、賦役と食糧増産のおかげで大きな懸念はない。


 美濃では効率的な炭焼き生産、紙産業、牧場が順調だ。美濃の牧場に関しては需要が増えている牧場を補完する産業として、家畜や作物を育てている。


 三河に関しては今川と武田が臣従したことで安全地帯となった。建設中の牧場では今年から先行して家畜の育成と作物の試験を始めていて、伊勢ともども耕作放棄地などはだいぶ減った。


 尾張・美濃・飛騨・信濃にまたがる木曽三川では、川筋の整理を含めた水害対策も続けている。まあ、この時代だと大規模ダムまでは造れないので、相応に遊水地なども必要だし元の世界と比べるとまだまだだなと思うけどね。


「よし、綺麗になったぞ」


 ディアナのおしめを取り換えてやると、にっこりと笑みを見せてくれた。


 仕事もあるけど、子供たちの育児はオレも参加している。時代的には乳母さんがすることなんだけどね。ウチでは乳母さんいないし。子供たちはなるべく自分で育てたいんだ。


「ああ、だめだよ」


 他の子たちはお昼寝をしているけど、武典丸たけのりまるが風邪をひかないようにとかけている着物を蹴とばしていた。少し暑いんだろうな。


 着物をかけなおしてやると、少し寝顔を堪能する。こうして一緒にいる時間は多くない。それが寂しい。


 正直、偉い人や寺社なんかどうでもいい。もう滅ぼしてもいいのではと最近は思うこともある。少し疲れているんだろうか?


 子供たちや多くの人々が笑って暮らせるためならば……。


「ちーちだ」


 そろそろ仕事に戻ろうかなと思っていると、絵理が目を覚ました。みんな寝ているからか、静かに起き上がるとオレのところに来て膝の上に乗った。


 こういう要領のいいところはメルティ似かな?


「よく眠れた?」


「うん、おふねのったの」


 どうも楽しい夢を見たらしい。みんなで船に乗って遊んだと身振り手振りを交えて教えてくれる。


「絵理、ちーちはお仕事に戻るから、みんなと仲良くね」


 ずっとこうしていたいけど、もう少し仕事がある。


「絵理?」


 ちょっと不満そうな顔をすると、絵理は膝の上で眠るように目を閉じた。せめてもの抵抗かなぁ。


「ふふふ、絵理。駄目ですよ」


「ぶー」


 ずっと見ていたセレスに抱きかかえられると、不満そうに口を尖らせた。


「あとで散歩には行くから。待ってて」


「……うん!」


 さて、あとは約束を守れるように夕方までに仕事を終えないといけないな。名残り惜しいけど、子供たちはセレスと侍女さんたちに任せて仕事に戻る。


 元の世界で暮らしていた頃、日々の生活とかいろいろと不満があった。


 でもね。あの時代は幸せだったんだなと今にして思う。公私の区別も付けられるし、命の危険も少なくとも日本ではなかった。


 妻と子供たちとたくさん思い出を作ろう。


 次の休みは海に海水浴とキャンプに行こうか。今年はすでに一度海水浴に行ったけど、子供たちはまだまだ遊び足りないみたいだしね。


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