第1805話・夏を前に
Side:由衣子
私たちは八戸にいる。海があり冬でも雪が多くないこの地は意外と過ごしやすい。梅雨の季節だけど、尾張ほどジメジメもしないのもいい。
コトコトと煮込んでいる猪肉を眺めつつ、外から吹き込む風に夏が近いことを感じる。
こちらは上手くいっていることもあれば、そうでないところもある。生まれた頃から培ってきた価値観を変えることほど難しいことはない。命令無視、聞いたふりをして勝手なことをするなんて山ほどある。季代子と知子はそれらの対処で忙しい。
優子は主に物価と流通の差配をしていて、こちらも忙しい。
ただ、私はあまり忙しくない。理由? 私自身が医師として診察する相手が、主に季代子たちと織田家家臣くらいだからだろう。治安が悪く地縁もないこの地で医療活動をするなんて現状では無理。
寺社を従えることも出来ておらず、末端の僧侶や武士は勝手なことばかりしている。そんな状況で医療活動をするなんて自殺行為だ。
もともと私は季代子たちの安全のためにいるのであって、無理に医療活動をするように命じられてもいない。危ないことをしてまで見知らぬ人を助けたいなんて思わない。
十三湊や大浦城などでは医師がおり、ケティの教え子が医療活動をしているけど。これも現状では領民に常時無料の医療を提供しているわけではない。衛生指導などが中心だ。
末端が従わない現状ではこれが限界であり、織田家としても貴重な医師に無理をさせるという考えはない。
まあ、月に数回ほど現地の領民向けに無料診察をしているけど。それだけ。
「うん、完璧」
醤油、みりん、砂糖などのいい匂いが調理場に広がる。今夜のメインになる猪肉の角煮が完成した。一緒にゆで卵も入れたからいい味になっているだろう。
「ああ、なんという匂いでございましょう。これだけで米がいくらでも食べられそうでございます」
「うん、これは美味しい。期待して」
いつも一緒にいる侍女。看護師も兼ねているけど、私と一緒にいるせいか食いしん坊になった気がする。もとは尾張の農家の娘さんだったのに。
「このたれも高値で売れそうでございますね」
「売れるけど、売るものばっかりあっても商いは上手くいかないから」
ウチの家臣はみんな商いに熱心だ。とはいえ、売る品ばかり増やしても、購買層なんてたかが知れているこの地ではあまり意味がない。
さあ、ご飯を炊いてお味噌汁も作ろう。
Side:久遠一馬
尾張には信濃の村上と高梨などの国人衆と、古河公方親子、北条氏康さんたちがいる。上洛から尾張まで戻り、このあと帰国予定なんだが、花火大会を見物して帰ってもらおうということになっているんだ。
あと古河公方親子は尾張の視察もするので、そちらは義統さん以下、外交担当の文官たちが頑張ってくれるだろう。
「上様の御所か。考えてみれば、真っ先に動くべきことかもしれぬな」
清洲城で仕事を終えると、信長さんと一緒に帰宅中の馬車の中で御所の件を相談する。
「頃合いが難しいんですよね。京の都が騒ぐので。やるなら今かなと」
今日の評定にて、この案を伝えて検討を頼んだ。もちろん懸念する声もあった。義輝さんが菊丸だと知らない人もいるからだ。義輝さんの真意を知らないと大丈夫なのかと疑問に思うのは自然なことだろう。
蔵人の一件、譲位における除外。尾張における朝廷の信頼度は下がるばかりだ。すなわち、足利将軍も信じすぎると危ういという潜在意識はそれなりにあるんだよね。
同盟関係も北畠家より六角家のほうが信頼度が少し低い。管領代という足利政権の重鎮である義賢さんは政権側に見えるからね。
「やらねばなるまい。六角を敵には回せぬ。あの地が荒れると畿内から西国まで関わらざるを得なくなろう」
諸事情を知る信長さんですら、敵に回せないという言葉が出るのが今の時代だ。親子関係も元の世界と違う。親子ですら疑う時代だ。他人を信じるって本当に難しいと痛感する。
もっともこれは義賢さんへの不信というよりは、当主個人の信頼があっても六角家ほどになるとそれで安泰と言えないからでもあるけどね。
ただ、反対意見まではない。どのみち六角領の防衛はそろそろ考える時期であるというのは、共通認識だ。厳しい言い方をすると、義輝さんや六角よりも朝廷の信頼度が低い。
同盟関係のある六角を守ると考えるならば、多少の費用を負担して六角と近江を取り込んだほうがいいと考える人が多い。
国力と経済格差は大きいからね。それを知ると懸念はあっても反対までは出ない。同盟国への配慮や援助、この辺りは曖昧な臣従が多かったこの時代の人も慣れていて、面目や権威を立てつつ、こちらに懸念がない範囲で守ってやらないといけないと考えるんだ。
「上様は望まないかもしれませんけどね。御所と町は世が変わっても残るものです」
義輝さん、まだ話してないけど。喜ばないだろうなぁ。ジュリアもそう言っていた。
「朝廷や諸勢力への説明は静養のための御所とするべきでしょう。御所の周りに町が広がったところで、そこが京の都に変わるわけではないと言えますので」
エルの指摘に信長さんが少し苦笑いを浮かべた。朝廷と政治の分離。実は評定衆にもまだ説明していない。そもそも義輝さんから政権移譲する件は、とても外に漏らせるものじゃないんだ。
ただし、義輝さんの権威が応仁の乱以降もっとも力のある将軍となったことで、多少派手なことをしても騒がれることがないと思うけど。
正式な御所は室町第だが、病の静養をするために近江にて政務をする。そのための臨時の御所となる。たとえそれが京の都を脅かす規模になっても臨時は臨時だ。
まあ、こちらの思惑に気付いたところで朝廷には打てる手は限られている。朝廷は上皇陛下や帝次第でこちらの対応も変わるのでなんとも言えないけどね。お二方を孤立させてはいけないし。
「兵を挙げぬというのは難しいな。未だに上様の下で諸国に号令を掛ければよいという献策があるわ」
少し疲れたような信長さん。いろいろ大変だろう。最近だといろんなところから献策があるし。困ったことにここまで力を持つと、それでも相応にやれそうなんだよね。新しい政権構想とか深く考えないと。
戦乱を収めて日ノ本統一と、明治維新クラスの大改革を一緒にやろうという頭おかしいような方針があるから、苦労しているだけで。
ただ、これは義統さんと信秀さんはもちろんながら、義輝さん、義賢さん、晴具さん、具教さんも共通意見なんだ。
オレたちで変えてしまわないと、後の世で改革なんて出来るわけがないと一致した。
史実の偉人は凄いよなぁ。藤吉郎君とか、職人にしないで文官にするべきだったかな? ただ、藤吉郎君の才覚は職人として花開いちゃったからなぁ。
オレたちで頑張るしかない。
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