第1804話・尾張への帰還
Side:武田晴信
尾張に戻り家老の佐久間殿から教えられた知らせに、思わず攻め滅ぼしてしまえという言葉が出そうになる。
甲斐にて検地と人の数を調べることに従わぬ者が多いという知らせが、清洲城まで届いておるとは。逆らうなと厳命したとてこの有様か。
「あまり気になさるな。ようあること。誰も気にしておらぬからな」
慰めの言葉か、配慮の言葉か。いや、これが織田の政か。失態も隠さずに上げることこそ政の大事というくらいだからな。にしてもあまりに愚かとしか思えぬ。
「信濃や駿河、遠江はここまででないのでございましょう?」
「相応にある。ただ、信濃は内匠頭殿の奥方がおるからな。目立たぬだけだ。駿河・遠江は先に愚か者を処罰した故、今は大人しいだけであろう」
与える利は当然の如く得るというのに義務は拒絶する。わしならば左様なところは許すなと兵を挙げるが。
「申し訳ございませぬ」
「あまり急かぬことだ。面目と意地で政をしても続かぬ。甲斐におるそなたの家臣も従えようと懸命に働いておる。かような時は良きことを認めることから始められよ」
なにもかも違う。すでに理解しておることだが、銭でも知恵でもない。この国は人が違うのだ。
「心情は分かるからな。我らは守護様を筆頭に大殿や久遠殿を信じられる故によいが、知らぬ者に新しいやり方を信じろというのは無理なのだ。まあ、秋までには落ち着くであろう。従わぬ者には利を与えられぬからな」
致し方ないのかもしれぬ。されど、今川に後れを取ったのはわしの失態でしかない。愚か者を先に始末するべきであった。
「京の都も相変わらずだと聞いた。上も下も欲しいのは利だけであろう。これが世の常なのだ」
佐久間殿が小声で囁いた。斯波と織田ほどになればさぞ楽であろうと思うたが、実情は違うからな。尊氏公の法要で上洛したというのに、主に内匠頭殿のことでは、朝廷と公卿の身勝手さを見せつけられた。
「警固固関の儀は、東国の者として許せるものではありますまい。あれで朝廷は東国を信じておらぬと示し、変わる気などないと明らかとした。にもかかわらず、内匠頭殿には望まぬ拝謁をさせて誉を与える故、機嫌を伺えとはあまりに勝手。さらに都では、それでまた銭を献上させろなどと言うておったと聞き及んだ」
与えるのは誉で求めるのは銭か? かつてならばそれが当然と思うておったが、尾張にて学び、内匠頭殿らがいかに考え励んでおるか知ると、それでよいのかと疑念が生まれた。
そもそも内匠頭殿は日ノ本の外に所領を持つ者、守ってやることも出来ぬ朝廷が臣下どころか見世物のように扱うは早計であろう。内匠頭殿にとって官位は役に立つのか?
「あまり騒がれるな。面目で戦はせぬ。それは西のことも同じ。兵を挙げたところで我らにも内匠頭殿にも利はない。故に皆で流しておるのだ」
「内匠頭殿はなんと強き心の持ち主か」
「あの御仁は争いを好まぬ。それが利にならぬからな。常に従う者や共に歩む者の利と先を考えるのだ。公卿のことは上様と奉行衆にまかせればよい」
かつて祖先が上洛した京の都。いかなる地かと思うたが、あれでは甲斐と変わらぬではないか。まあ、よい。わしは己の役目を全うするのが先か。
Side:久遠一馬
はぁ、尾張に帰ると落ち着くなぁ。正直、五月中に戻れて良かったと思う。義統さんも信秀さんも、当分上洛はしなくていいやという雰囲気だね。
季節は梅雨。尾張でも留守中に長雨があったりしたけど、大きな問題がなくホッとする。
シトシトと降り続く雨音を聞きながら、留守中の書類確認だ。昔と違ってそこまで仕事が溜まることもないけど、最終的にオレの決裁がいる書類は当然ある。
今回同行した総奉行である斎藤義龍さんとかは大変かもしれない。あとで様子を見に行こう。
「ああ、
早急に決裁が要る書状を片付けると、各種報告書がある。昨年、ウチで召し抱えた元遊女屋さんの報告書があった。
遊女の待遇とか環境、以前から地道にやっているんだよね。妻たちと協力してくれる遊女や関係者たちで。とはいえ広がる領国に価値観の違いもあって、そこまで進んでいたわけでもない。
人権やら倫理を持ち出す気はない。あくまでも社会の変化とメリットもあるから変えていこうという形が望ましい。
遠江・駿河、ここらは当然として、飛騨や志摩なども遊女の待遇が良くないとのことだ。
まあ、このあたりは仕方ない。立場の弱い者が食い物にされるのは、元の世界でも体裁を変えて残っていたことだからな。雇用する側の立場が強いのは変えようもない。
ついでに駿河・遠江なんかは相も変わらず尾張への反発が強いようだけど、地道に活動するしかないね。
「こっちも予想通りかなぁ」
あと甲斐。ここは
あとは風土病対策として立ち入り禁止にした村に勝手に戻る人や、無断で住み着く人もいるようだね。
地元の国人、土豪、寺社の末端が、裏で隠せと命じたりしているところもある。所領、寺領の俸禄化に納得していない者が末端には多い。上は仕方ないと渋々でも納得したんだろうが、末端の者からすると生殺与奪の権利を一族の上層部や当主に握られることが嫌な人も多い。
織田以前に一族内部でも、信頼なんてそんな程度なところが割とあるらしい。
もう時間をかけるしかないね。こういう改革は地道にやるのが一番だ。
「よし!」
「ちーちいる!」
うん。仕事をしていると、定期的に子供たちが覗きにくる。今日は朝から子供たちが何度も屋敷内にある仕事部屋に来て、オレがいるか確認する遊びをしているんだよね。
昨日なんか離してくれなかったから、みんなで一緒の部屋で寝たくらいだ。なかなか寝てくれない子もいて、まるで旅行にでも来たかのように楽しい夜だった。
上洛して少し留守にしていたからなぁ。
申し訳ないけど、偉い人の顔より子供たちの顔を見ていたいよね。
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