第1801話・京の都に別れを

※一馬と妻たちの人物紹介と拙作のオリジナル用語が別途用語集として掲載しています。



Side:久遠一馬


 上皇陛下との拝謁も何事もなく儀礼的に終わった。なにか余暇を楽しめる贈り物でもしたいけど、目立つことをするとまた叩かれる原因になる。贈るとしても少し時間を空けたほうがいいだろう。


 京の都にいると、この時代を生きるのがいかに難しいかと痛感する。


 正直、皇室だけならば、そこまで対応が難しいわけではない。問題はこの時代の皇室、いや朝廷というものには、多くの公卿公家から寺社や武士などが連なっていることだろう。


 斯波家と織田家の一番の懸念は、彼らがこちらの富と利権を奪うと考えていることで、その懸念は的外れとは言えない。


 史実の江戸時代以降を思うと、君臨しても統治はしない朝廷のイメージがあるかもしれないが、この時代では建武の新政や南北朝時代が近い過去であり、厳密に言えば朝廷が政治を放棄したなんて事実はない。


 ただ、この時代では朝廷の権威が有史以来史上最低レベルに落ちているといえる頃であり、多くの者は主権が誰にあるかなど気にしないだけだ。それでも、いずれ主権を問われるようになるのは歴史が証明している。


 律令時代の体制と遺産を切り崩ししつつ生き残る朝廷には申し訳ないが、変えないことで生き残っている朝廷の権威と体制はいずれ一新しないと他ならぬ皇室が困ることになるだろう。


 だけどね。多くの血を流して、史実の会津と長州のように恨みつらみを後世まで残した明治維新のような強引な改革を、尾張のみんなにやれとは言えないし言う気もない。



 その後、数日の日程をこなし明日には出立するという頃、稙家さんと晴嗣さんが姿を見せた。多くを語ることはないが、旅の無事を祈るということだ。


「やはり、そなたは恐ろしき男よな。観音寺で初めて会うた時に懸念した通りになったわ」


「殿下、私にも守るべきモノが増えました。奪われるわけにはいかないのです。相手が誰であっても……」


 ふと見せた稙家さんの一言は本音か、こちらの本音を探る誘いか。まあ、どちらでもいいだろう。公私の区別はつけているつもりだ。この人たちとはオレがやり合わなければならない。


 力なき交渉などあり得ない。まして朝廷は多くの弱き者、敗れし者を食らい見捨てて生き残ってきた強敵だ。


「理解する。それが人の上に立つ者じゃからの。主上の権威で生きる吾では及ばぬところもある」


 この一言は本音だろう。お互いに譲れないところも多いが、不思議と立場は理解するところが多い。ただ、だからこそこの人とは対立しても戦をすることはないと思う。ただ、無言のまま聞いているだけの、関白である晴嗣さんはどうだろうね?


「手を抜くなど出来ません。ただ、願う先は同じかと思うております」


 朝廷との関係はようやく同じ土俵に上がった程度だろう。千年以上の歴史と伝統、そのノウハウは決して軽視していいものじゃない。オレにはエルたちと築き上げた約二十五年程度の時しかないんだ。


「次にいつ会えるか分からぬ故、言うておく。この先いかになろうと、吾はそなたに会えたことを悔やむことはない。願わくは……、そなたの見ておるモノをこの目で見てみたいものじゃの」


 手強いなぁ。この世界にきて多くの人と会っているが、今までで一番利害を合わせるのが難しい相手だ。個人と家とおおやけ、それぞれで立場が違い、言えることも限られている。


「それほど珍しきものではございませんよ。誰でもほんの些細なきっかけがあれば見えるものです。私の役目はそれを皆に見せることくらいでしょう」


 オレは戦国の覇者も天下人も器ではない。政治家も向かないだろうね。それはきっとこの先も変わらない気がする。


 ただ、信長さん、信秀さん、義統さん、晴具さんなど、多くの人から教えを受けて多少なりとも変わったと思うし、出来る限りのことはしておかないといけない。


 近衛さんたちとの交渉と対峙も始まったばかりだ。


 本当に手強い相手だけど、オレは負けない。一緒にいるエルたちと目を合わせてそれを確信する。




 ◆◆


 永禄三年、四月。足利尊氏の二百回忌法要が京都にある等持院にて行われた。


 この頃の足利幕府は、斯波、織田、六角、北畠という三国同盟の後ろ盾もあって、将軍足利義輝の権勢は急速に安定し始めていた。


 この法要はそんな義輝の力を示す意味もあり、盛大に行われている。


 畿内からは義輝と未だ敵対していた管領細川晴元は参列していないものの、平島公方足利義冬、細川氏綱、三好長慶など主立った者が参列しており、他にも先に挙げた三国同盟である斯波義統、六角義賢、北畠晴具や朝倉義景、関東は古河公方足利義氏とその父である晴氏、北条氏康なども参列している。


 なお、織田は当主である織田信秀と久遠一馬、斎藤義龍、姉小路高綱、吉良義安、小笠原長時、今川義元、武田晴信、京極高吉など、家中の足利一族と元守護家、守護代家の当主を擁しての上洛であり、当時の京の都でもその勢力に驚いたという資料が幾つも残っている。


 法要自体は恙なく終わっており、名代を含めると諸国の主立った勢力が揃ったことは三年前の譲位と同等か、それ以上であったという話が伝わっている。


 この上洛において法要後に行われたのが永禄の茶会であり、法要と合わせて応仁の乱以降では最高の権勢を示したという資料もある。


 ただ、幕府と朝廷の関係は義輝の権勢が増すほどに軋轢も増えていたとの資料もあり、永禄の茶会の原因へと繋がると思われる。


 『足利将軍録・義輝記』によると、この時、幕府奉行衆は尾張勢と朝廷の仲介もしていたとあり、根回しもない突然の茶会に義輝と奉行衆が怒ったと記されている。


 さらに様々な資料から義輝と斯波、織田、久遠の連携は誰もが思いもしないほど深まっており、奉行衆が突然の茶会に関する諸事を一馬に相談をしたと書かれた書状も残っている。


 当時の後奈良上皇と正親町天皇と、義輝や尾張勢の関係が良好だったのは様々な資料から明らかであるが、公卿を筆頭にした京の都における諸勢力との関係は変わりつつあり、歴史の転換期とも言える法要と茶会であったと語る歴史学者もいる。



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