第1798話・それぞれの茶席・その三

Side:広橋国光


 吾の考えたものではないが、院と主上のご尊顔を拝すると安堵する。


 晴れやかなお顔だ。やはり……、吾ら公卿では駄目なのだ。口惜しい思いがあるが、此度の茶席でそれを痛感した。


 誰の為の朝廷か、誰の為の日ノ本か。主上の御為、朝廷のためと称して、私利私欲ばかりではないか。今の世の公卿は。


 かような時に公卿を超える徳と知恵を持つ者が現れ、主上と院はかの者らを求めておる。主上の権威を己がものとして、好き勝手する公卿はこの先いかがなるのであろうな。


 ふと武衛や弾正が見えた。今は楽しげであるが、かというて此度のこと喜んではおるまい。京の都と朝廷に関わりたくない。


 最早、それは変えようがない本音なのだ。あのふたりを怒らせたのは吾の失策であった。


 肝心の内匠頭は慈悲深く、常に争わぬ道を考えておる男だ。されど、かの者の慈悲は主上や院ではなく、自らに従う者、共に生きる者、弱き民に向く。


 無論、主上と院には義理以上の配慮を示しておる。それ故に、かの者にあるべき朝廷に戻れと突き放されたことは、天に見放されたことに等しいのではあるまいか?


 譲位において東国を締め出したことは、今後も事あるごとに言われるであろう。斯波と織田にはそれを言える立場にある。詫びに官位でもと思うても、官位を得れば面倒事が増えて献上を増やせと催促されるだけだと疎まれてしまう。


 それが織田に従う諸将に広まり、東国すべての武士に広まった時、朝廷は東国を失うのではあるまいか。


 いかにすればよいのだ? 朝廷も公卿も存亡の機ぞ。


 積み重なった東国の不満と怒りがいずれ解き放たれた時、内匠頭はいかがするのであろうか? 自ら日ノ本を治めようなどと思わぬことは承知なれど、多くの友と民のためならば立つのではあるまいか?


 吾は……、吾はいかにすればよい? 内匠頭よ。何故、吾のことは導いてくれぬのだ。




Side:シンディ


 紙一重、そんな言葉がこの茶席に相応しい。そう思いますわ。


 争いと平和。公卿と武士。過去と未来。あまりにも多くの紙一重の事柄が、この席に重なっている。


 ただ、帝と院は自らの足で歩み、前に進んだ。自ら未来を切り開かれたのです。その事実と功績はどこまでも深く重い。


 私は……、ゆっくりとみんなでお茶を飲んでいたかっただけ。もう少し言うとしても、大好きなお茶に不要な形式と権威をつけられたくなかった。それだけのことなのですけれど。


 少し冷めたロイヤルミルクティーを口にして考えます。これもまた味と香りを残しつつ大勢で楽しめるようにと淹れられている。朝廷のあまり見えない知恵と技が垣間見えるものですわ。


 多くの可能性は残せた。今はそれを喜ぶべきかもしれません。


「シンディ?」


「いえ、かような機会は二度とないかと思いまして」


 ふふふ、司令に考え事をしていることを気付かれてしまいました。頼もしくなりましたわね。効率的に物事を進めることにはもとより長けていましたが、人々を惹きつけるようになったのはこの世界に来てからです。


 この難しい乱世の時代に私たち百二十二人をまとめて、十年もの月日を大きな失敗もなく生きてきた。それもまた、司令自身が考えるより遥かに難しいことですわ。


 それでも私たちが穏やかな日々に戻るのは、まだ当分先ですわね。


 私たちが共に生きた年月は決して裏切らない。貴方と私たちならば……、きっとこの先も乗り越えられますわ。


 今日のように。




◆◆

 永禄の茶会。


 永禄三年、五月初旬。前月末にあった足利尊氏公の二百回忌法要に参列した者たちを招いて、仙洞御所にて行なわれた茶会になる。


 後奈良上皇と正親町天皇が揃って出迎えたことでも有名な茶会である。後奈良上皇が自ら差配して紅茶と牛乳茶を淹れて手渡しする、正親町天皇もまた自ら菓子を手渡しで与えるという前例のない形式であった。


 これには久遠流茶道の開祖である桔梗の方こと久遠シンディの茶の湯を学んだ、後奈良上皇が自ら考えた茶会であり、清洲城でのもてなしで受けた尾張の祭りにあった屋台を茶会にて再現したものになる。


 同席したのは当時の五摂家を筆頭とした在京の公卿たちと、足利義輝以下、足利政権関係者と法要に参列した者たちであった。


 当時は、尊氏と義輝を、後奈良上皇と正親町天皇が高く評価した故の茶会であると表向きはなっていたものの、実情は当時の政治情勢と朝廷内における様々な問題があったことが現在では明らかとなっている。


 ただし、後奈良上皇と正親町天皇がどこまで内情を知っていたのかは、今もはっきりしない部分が多い。


 茶会を考えた後奈良上皇には様々な思いがあったとあり、それは個人の日記などで書かれているものの、すべては憶測の域を出ておらず真相は分かっていない。


 きっかけは公卿である広橋国光が、久遠一馬を後奈良上皇と正親町天皇に茶席という形で非公式に拝謁させようとしたのだと『言継日記』にある。しかし、当時の情勢と畿内に与える影響から、義輝も斯波義統も織田信秀もこの件を好意的には受け止めておらず。


 一馬自身も、この時点では朝廷を自ら変えることには否定的だったことは確かで、国光と近衛稙家には、自身がくる前の朝廷に戻ってほしいとはっきりと求めたことが明らかとなっている。


 結果として両名の面目を立てて茶席に出席することにはなったようだが、法要に参列した主要な家の当主なども呼ぶことで、義輝の権威を示すための茶会に変えたというのが真相になる。


 当時の様子は後奈良上皇が描かせた大和絵として残っていて、国立美術館にて定期的に見ることが出来る。


 朝廷と足利政権と尾張という、当時の難しい情勢が露わとなった茶会であるが、皇室が来客を招くというこの茶会は、現在の園遊会の礎となった。


 『無形こそ唯一の作法』とは久遠流茶道の極意であり、先例と慣例に縛られた当時の後奈良上皇が気に入ったことで、全国に広がるきっかけとなった。


 現在でも皇室では園遊会や茶会を催すことがあるが、この久遠流の極意により、その時々により様々な趣向を凝らしたものとなっており、その真意を推し量ることを楽しむのもひとつの楽しみ方となっている。



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