第1737話・大晦日

Side:穴山信友


 寒さに古傷が痛む。今年も終わるというのに、誰も口を開く者がおらぬな。


 若い者を生かして家を残すためとはいえ、罪人として労役に励めというのはあまりに厳しい。


 いや、それも我らがしてきたことか。生きるためとはいえ慣例を破り、人に言えぬことを幾度もしてきたのだ。


 勝てばすべてを奪い、負けたらすべてを奪われる。されどな、戦わずしてすべてを奪われるとは思わなんだ。


 直に聞いたことではないが、同じく労役とされた者の中には、腹を切って死にたいとこぼしておる者もおるとか。だが、あらかじめ御屋形様から釘を刺されておるのだ。勝手に腹を切った者は残された一族郎党に累が及ぶと。


 御屋形様は、我らから死に場所すら奪ってしまわれた。


「殿、今宵くらいは飲みましょうぞ」


 ただ、織田はわずかながら我らに配慮をしてくれておる。この日も当地の賦役を差配する代官から、酒や正月の餅など正月を迎える品を頂いた。


 同じ飛騨には伊勢で一揆を起こしたという罪人どももおるが、あの者らは常と変わらぬ飯が食えるものの酒も餅もなく正月を迎えるのだという。


 あの者らや、かつて我らが鉱山にと送った者らと比べればまだ扱いはいいが、左様な心遣いですら己の立場を思い知らされるようで喜べぬ。


「わしは少しでよい。皆も飲め」


 共に許されず罪人となった者らに酒を勧める。愚かなわしを恨む者もおろう。最後まで忠義を尽くさんとする者もな。


 最早、与えるものもなく、久方ぶりの酒を少しでも多く分けてやるしか出来ぬ。


「甲斐では、飢えぬようにと少なくない助けがあったとか。織田は口だけではないな。言うことは確と守る。それだけは救いだ」


 ひとりの者が酒を飲むと、周囲の者の心情を思ってか、少しでも気が晴れることを口にした。


 ここには残した一族から銭や文が届くこともあるのだ。その中には、かつての故郷のことも書かれており、飢えぬだけの助けがあったと聞き安堵した者も多い。


 我らが織田の立場ならば、助けると言いつつ理由を付けて与えず奪うことを考えよう。ところが織田は甲斐ですら飢えぬ国にするべく動いておる。


 信じられぬが事実のようだ。我らにとっては、残された者が生きていけるという、その知らせだけが救いなのだ。


「あの地が飢えぬようになるのか?」


「無理であろう。我らとて好き好んで飢えさせておったわけではない」


「銭があろうと知恵があろうと変わらぬ。今だけよ。織田は体裁を気にするからな。皆の目が甲斐から離れたら奪うか捨て置くか」


 とはいえ、厳しき日々のせいか。現状への不満のせいか。今ある状況を正しく見えておらぬ者も多いな。


 確かに織田が、いつまで甲斐を変えようするかは興味がある。されど、体裁のために動いておるわけではあるまい。


 美濃も三河も伊勢も、そして信濃も変えておったのだ。飢えぬようにとな。


 領国をしかと治める。やり方は違うが、武士としての常道であり役目だ。それについて、斯波と織田はいずこの者より真剣なのだ。


 左様なことも分からぬから道を誤るのだ。わしが言えた義理ではないがな。


 死した暁には、一族の菩提寺に行きたい。今あるわしの最後の願いだ。


 それだけは……。




Side:滝川資清


 大晦日か。今年も終わるな。


 御家では二十八日には仕事を終えてしまうので、あとはやることがない。いつ召し出されてもいいようにしておるものの、こちらからはお屋敷に行かぬことにしておる。


 急な仕事でもあれば動くが、殿やお方様らは休む時に働くことを良しとしておられぬ。


 まあ、家中の者の相談に乗ることもあれば、訪ねてくる者を歓迎することもある。暇をして困ると言うほどではないがな。


 妻子、家族のみで過ごす時を邪魔したくないのだ。今では家臣や仕える者も増えたが、もとより殿とお方様がたは日々の暮らしもすべて自らなさる。求められるまま屋敷の警護と必要な奉公人は残してあるが、それだけだ。


「茶でもいかがでございましょう」


「うむ、よいの」


 庭で遊ぶ子らを眺めておると、ソフィアが紅茶を淹れてくれた。


 立ち居振る舞いはお方様を思わせる女だ。慶次郎は、年の瀬は暖かいという故郷である久遠諸島に戻ってもよいと言うたそうだが、自ら残ったと聞き及ぶ。


 遠慮せずとも良いのだがな。殿のお傍でお仕えして、異なる地で生きる苦労は理解しておるつもりだ。もっとも残るというなら、それもよい。共に新たな年を迎えるのもまた喜ばしいことだ。


 滝川一族は変わった。もとよりたいした身分ではないが、御家に習い、変えるべきことは変えておる。子は皆で育てることや、日々の暮らし、一族の序列など、日ノ本の武士というよりは久遠家の家臣として考えておるのだ。


 殿がいつ日ノ本から離れると言われてもよいようにな。


「十年か」


「いかがされましたか?」


「わしが尾張に来て、来年で十年となるのだ。月日が過ぎるのは早いと思うてな」


 驚き、戸惑い、家臣として務めを果たせておるのかと案じたことも幾度となくあった。今でも満足のいく働きをしたと自負するほどではない。


 されど……。


「皆、よいお顔をしておりますね。まるで故郷のようでございます」


 わしもまたソフィアと同じことを考えておった。


 至らぬ身だが、殿やお方様がた、久遠家中や、一族の者ら。皆がよい顔をして新しい年を迎えられる。それがなによりも誇らしく思える。


「元来、わしは世に名を知られるような男ではない。泥にまみれて生きる者。されどな、ソフィア。泥にまみれて、下から見上げる者がひとりくらいは殿のお傍におっても良いと思えるようになった」


 殿は遠からず日ノ本をまとめてしまわれるだろう。自ら人の上に立たずに。


 やがて偉大な先人のように殿の名は後の世まで残るはず。わしはその一助となれればそれでよい。それでよいのだ。


「尾張だ本領だということは、今後なくなると思います。すべては八郎様のお働きがあればこそ。本領の皆も理解しておりますよ」


 さすがは本領の女。お方様を思わせるわ。


 わしがもっとも重んじることを理解しておる。たとえそれが過ぎたる評価の誤解であっても、本領の者がそう思うてくれるのならば、それに勝ることはない。


 御家を割るようなことはなにがあってもさせぬ。それだけはわしがこの身に代えて成してみせる。必ずな。




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