第1725話・文化祭・その四

Side:斯波義信


 ふと初めてここに来た日のことを思い出した。かつての近習らが、何故わしが出向かねばならぬのだと怒り騒いでおった日のことだ。


 わしも若かった。近習らの意見にもっともだと思い、同じように不満を露わとしておったな。


「殿……?」


 妻であるいねが、少し考え込むわしを見ておった。


「楽しみよの」


「はい。左様でございますね」


 武衛家のわしが何故、臣下や民草と同じ場で学ばねばならぬのだ。そんな思いが間違っておったわけではない。かつてはそうだったのだ。いや、今でも斯波と織田の治める地以外ではそのままであろう。


 わしは父上の悲しそうな顔が今も忘れられぬ。もう学校に行かぬと言うた日のことだった。


 なにが不満だったのか。今となってはさしたる理由も思い浮かばぬ。強いて挙げるとすると、楽しげな学徒らが恨めしかったのかもしれぬ。わしが思うままにいかぬというのに、臣下や民が笑うておるのが許せなんだだけであろう。


 その後、傅役が代わり、近習も代わった。父上は廃嫡にするのではとすら思うたほどだ。


「若武衛様! もうしばしお待ちくだされ!」


「焦らずともよい。かようにゆるりと日が暮れるのを眺めておるのも良いものぞ」


 長年傍におった頼る者がおらなくなり、わしも変わらざるを得なんだ。学校に行かねばならなくなり、今に至る。過ぎてみると己の若さ故の未熟さと恥ずかしくなるほどよ。


 日々、温かい飯や珍しき菓子が食えて、夏には氷菓子も食える。城を出ると声を掛けてくれる臣下や民の顔に、わしは己がいかに幸運かと思い知らされる。


「一馬の周りはいつも賑やかじゃの」


「ふふふ、そうでございますね」


 ゆるりと夜の支度をする者らを眺めておると、一馬が校舎から姿を現した。幾人もの奥方や子らが周囲におって、皆が一馬の姿に喜び声を掛けておる。


 世は広く、厳しくもあるが面白い。城の中におってはもったいない。一馬が直に口にしたわけではないが、我らが教わったことだ。


 わしにも分かる。日ノ本はまだまだ荒れよう。誰も信じられず、皆が奪い合う。神仏の名を用いる寺社ですらそれは同じ。


 尾張は一馬という信じられる者を得た。それがすべてと言うても過言ではあるまいな。


 ああ、日が暮れるの。




Side:久遠一馬


 学ぶということの楽しさ。素晴らしさ。学校に来ると、それを教えられる。


 アーシャが、なによりも伝えたいと願っていたことだろう。


 学校オリジナルと言える、年々進化する武芸を用いた集団演武は大人気だ。他にも蹴鞠などの披露も思った以上に見物客が多かった。


 無論、批判的な意見もないわけではない。学問や武芸は見世物ではないという苦言を述べる人も中にはいる。それも間違いではないだろう。


 学問や武芸を特権のように考え、それを信じて守ってきた人には受け入れがたいことでもあるんだと思う。


 史実の信長も、茶の湯を開くことを許可制にして一種の特権とすることで褒美にしたなんて逸話もあるしね。本当かどうかまで知らないけど。


 ただ、誰にでも学ぶ機会を与えたい。この概念は必ず残るはずだ。世代が変わり世の中が変わっても。


「結構あちこちから集まったんだね」


 東の空に一番星が見える。気が付くと周囲にはお坊さんも多い。領内の各地で学問や武芸を教えているのは寺社だ。主要な町には公民館を利用した分校を設置しているものの、どちらかというと中等教育くらいの扱いになっている。


「私たちの理念を熱心に学んでくださっているわ」


「必要とあらば新しきことを取り入れる。寺社も結構柔軟だよ」


 仕事を終えて合流したアーシャとギーゼラもいい顔をしている。


 アーシャたちが育てている教育というものを一番理解してくれているのは、間違いなく寺社の関係者だろう。知識層だけあって理解があるんだと思う。


 宗派ごとに違う教えなどは避けつつ、まずはみんなに読み書き計算を教えるようになりつつある。まあ、現場単位だとケースバイケースらしいけど、教えた者を囲い込むような真似をしない限りは許容範囲だ。


 寺社奉行管轄下にて目付役を領内の寺社に派遣していて、学問や武芸の指導から医療活動や地域における働きなどを不定期で確認指導している。当然、寺社にとってメリットもある。寺社が困った時は相談に乗るし、頼まれると運営の助言もするようだ。


 寺領がなくなったことで、領民を税として働かせることが出来なくなり、いろいろと寺社の運営も変わっているからね。対応出来てないところはあるんだ。


 少し話が逸れたけど、学校で祭りをするということで駆け付けてくれた人たちらしい。


「ちーち! おふね!」


「うわぁ。凄いな。あのままでも海を走れそう」


 さあ、夜だ。山車と共に那古野神社まで練り歩くんだけど、船の形をした山車に子供たちや周囲にいる人たちが驚きの声を上げた。


 大鯨船ことガレオン船と、小鯨船ことキャラック船を小型にした山車だ。船の造りは本格的だ。船底に車輪がある以外は。黒く塗った外壁も白い帆も、あれ本物と同じじゃ?


「うふふ、驚いたようね。職人衆が密かに励んだのよ。船大工衆いわく、あのままでもちょっと手を加えると海を走れるそうよ」


 嬉しそうなアーシャの声に驚いていたんだなと自覚する。いや、見せかけるだけじゃないくらいちゃんとした造りって、大変だったろうに。みんな仕事も忙しいんだよ。


 第一回からあった灯篭型の馬車も健在で、人形がある山車馬車や、船の山車で年々派手になっているなぁ。


 笛や太鼓の音色と共に練り歩く。今年は妻と子供たちと一緒だ。周囲にはウチの子である孤児院の子たちもいるから、オレの周りは大人半分、子供半分といったところか。


 提灯や松明の明かりが幻想的だ。


 少し離れたところには誇らしげな職人衆たちが見える。いや、本当に驚いたわ。ただ、無理をしていなかったか心配になるね。


 特別なことじゃない。那古野の地域のお祭りとして文化祭が定着しつつあるのかなって思う。


 きっかけがどうであれ、この祭りは那古野の人々によって伝えられていくんだろうな。そうなってほしい。


 連綿と続く歴史にとって、ほんの一瞬の出来事なんだろうが。


 それもまたいいのではと思える。




◆◆

 永禄二年、第四回文化祭が行われた。


 第二回は当時方仁親王であった正親町天皇が訪れ、第三回では後奈良上皇が訪れた文化祭であったが、この年は非公式に足利義輝が訪れていたなどあるものの、第一回に続く本来の形での文化祭となったようだ。


 学校と隣接する病院を、地域や領内の人に知ってほしいという考えから始めたとされる文化祭であるが、この年には現在でも現存する大鯨山車や小鯨山車が作られた年である。


 尾張のみならず領国の各地からも人が訪れていたようで、那古野は人であふれていたという記録も残っている。


 なお大鯨山車と小鯨山車は重要文化財となっているものの、現在も現役の山車として名古屋文化祭にて巡行されている。



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