第1701話・紙一重の未来
Side:滝川一益
危うかった。ひとつ間違うと、大きな騒動になってもおかしゅうない様相が京の都にはあった。騒動とならなんだ理由は数多あろうが、一言でいえば院と帝に異を唱える支度が誰も出来ておらなんだだけとも思う。
公卿も各々に思惑はあれど、近衛殿下は院の御内意を重んじるべく動かれており、二条殿下や三条公は周防の一件から、こちらの意を無視してまで騒ごうとはされなんだ。
少なくない銭が動いた。こちらの負担も考慮してくだされたこともあろう。
そんな仙洞御所の落成法要と祝いの宴も終わり、上様も安堵されたようだ。この日は、奉行衆や三好、六角、北畠、斯波と主立った皆を集めて、ささやかな宴を開いておる。
苦難の世なれば、質素倹約に励む。それが院の御内意であった。ただ、院が質素倹約に励むというのは前例がない。まあ、皆がそれなりに納得する理由としては悪うないのであろうが。
「彦右衛門、そなたもよう励んだな」
わしは外れの宴席でゆるりとしておったが、まさか公方様から席の遠いわしにお声がけがあるとは。
「はっ、畏れ多いことでございまする」
殿がおられぬことで、わしはあまり目立った働きはしておらぬ。幾人かの公卿とお会いして、少し前に生まれた
もっとも久遠家忍び衆が集めた内容を公方様や守護様にお伝えするなど、相応の働きはしたつもりだが。
公方様は、わしのように下の身分の者から皆にお声がけをされていく。
かような御身分ではないのだがな。菊丸殿として暮らす日々が公方様を変えたのであろう。
「ささ、彦右衛門殿も飲まれよ」
「はっ、頂きまする」
宴席が賑やかになると、わしもあちこちに挨拶に出向く。身分が低いこともあるが、尾張では我が殿がよくしておられることだ。待つのはあまり性に合わない。そう言うておられたことを思い出す。
「あれこれと配るのに、随分と苦労をかけさせてしもうたな。尾張の内匠頭殿が悪う思わねば良いが……」
ひとりの奉行衆からは、申し訳なさげに案じていただいた。
「いえ、天下のため公方様のため、我が主はこの程度の労ならば喜んで致しましょう。それに、当家は争わぬための品ならば惜しみませぬ」
公卿を黙らせて院を守るために、わしの一存で少なくない品々を公方様に献上したからな。案じるのも無理はないが。その品々もすぐに尾張から船で届き、すでに配り終えた。あまりの早さに公卿が恐れおののいたと聞いたほどよ。
ただ、殿は銭や品物の差配で家臣を叱ったことは未だかつてない。命を粗末にすることは厳しいお方なれど、作るなり買うなりすれば手に入るもので怒るお方ではないのだ。
「頼もしい限りだ。代わりというわけではないが、こちらは任せてくれ。内匠頭殿と久遠家が困るようなことにはさせぬ」
「ありがとうございます。我が主も喜びましょう」
当家の本領は日ノ本の外にあり、殿は形式として織田家家臣であるが、時としていずこにも属さぬ王となる立場でもある。また、久遠家の商いや交易をいかなる名目でしているかなど、突き詰めると少し揉めそうなこともある。
奉行衆を筆頭に公方様の側近の皆様方には、その辺りをご理解いただき助けられておるのだ。
朝廷は今後も注視せねばならぬが、今のままで皆が力を合わせれば天下の大乱とはなるまい。唯一の気がかりは細川なのだが。我が殿はあまり案じておられぬからな。
なにはともあれ、良かったわ。
Side:北畠晴具
学校に来ると内匠頭殿から教えを受けたいことがあるというので、屋敷に出向き弾正殿と内匠頭殿らと共に茶を飲みながら話を聞く。厄介事かと少し案じたが、弾正殿の話に思わず笑うてしまったわ。
「我らは詳しく存じませぬ。是非、大御所様のお考えをお教え頂きたく」
「上手いこと考えるものよ。公卿にまで生きる場を与えるとは」
上様の下に地下家を付けて使うてやれぬかと考えるとは。よくよく頭を使うのが上手い者らじゃ。敵となる者も心から争いたい者ばかりではない。生きる場と糧を与えれば降る者も多い。織田の、いや久遠の強みじゃの。
「悪うないの。かつて義満公が公卿を従えたこともある。地下家ならば従う者も多かろう。欲を言えば、公方様の官位をもう少し上げたいところじゃがの。ところで誰ぞの知恵じゃ?」
「はい、メルティが考えました」
「ほう、絵師殿か。絵を描くということは、物事をよう見て考えるのが上手くなるのやもしれぬの。仮にこの策、公卿が異を唱えて潰しても、我らと上様にはなんの損もない。むしろ手を差し伸べたというのに足蹴にされたと言えるかもしれぬ。そこまで考えたのであろうがの」
面白いことを考えるわ。わしや尾張が京の都のことに口を挟むと公卿は喜ばぬが、上様ならばなんの懸念もない。
「一馬。ならば、都の公方様に知らせを出すか」
「はい、そうですね。まず内々に献策してみていいかと」
朝廷とは一戦交えねばならぬかと思うておったが、これが上手くいけばまことに朝廷が変わるかもしれぬ。古の世を願う公家らをいかに扱うか。頼朝公が鎌倉で世を治めてから、武士にとってもっとも難しき難題じゃからの。
この者らの恐ろしきことよな。尾張の地から、上洛せずに京の都をまことに変えようとするとは。
無論、公家らも常ならば従わぬかもしれぬ。将軍とはいえ、争いに敗れて都から逃れることもある者にはな。
されど、従わねばこちらが地下家ばかりか公卿を切る名分になりかねぬ。地下家を従える公卿もすべては出すまいが、多少なりとも人を出すしかあるまい。上様を支える者が足りぬ現状では最良であろうな。
ふふふ、面白いことになる。公卿はこれをいかに見る? 友誼を深めてこちらに入り込む好機と見るか? それとも己らを潰す策謀と見るか?
いずれにしても院や帝はこの件に異を唱えまい。かの者らは己の意思で命運を決めることになるのであろう。
朝廷がいかほどのものか。今まで多くの者を見捨ててきた。古より連なる捨てられた者らの怨念が朝廷に降りかかるのやもしれぬの。
まあ、それもまた世の習いであろう。わしは手を差し伸べる気などないがな。
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