第1683話・一年の価値
Side:久遠一馬
上皇陛下の御還御が近づいている。
いろいろあったけど、気持ちよくお別れしたい。それはみんなに共通することだろう。広橋さんや山科さんも細かい慣例や仕来りより、それを重視しているのは明らかだ。
この日、上皇陛下に呼ばれたのだが、その場には上皇陛下以外、誰もいなかった。こういうのは、山科さんを久遠諸島への帰省に同行出来ないかと頼まれた日以来だ。
風が吹き込む音、風鈴の音色、人々の営み、あるがままの音を聞くように、しばし無言が続く。
「蔵人のこと。朕の不徳であった」
まさかのお言葉だった。
「かの者たちには、かの者たちの役目がございましょう。結果として行き違い、心ならずのこととなりましたが、致し方ないことと存じます」
謝罪の言葉と受け取っていいんだろう。人払いするはずだ。譲位したとはいえ、人に聞かれていい言葉じゃない。
「先例のないことこそ学問とする。久遠の教えを学べたことだけでも、尾張に来て良かったと思う」
先ほどのお言葉じゃないけど、蔵人がいなかったらもう少しいろいろ出来たはずだ。それでも花火をお見せして、海水浴にもお連れ出来た。一年を通したイベントやお祭り、政も多少だけど触れられたことは、オレも本当に良かったと思う。
最早、史実とは違う世界だ。朝廷、いや皇室というべきか。皇室は歴史にもない新しい形を模索しないといけない。その
「ご無理だけはされませぬように、伏してお願い申し上げます」
申し上げたいことは幾つもある。ただ、一番言いたいのは、この一言だろう。尾張を知ると多かれ少なかれ焦る人が多い。
でもね。結果だけ見て変わろうとすると足を掬われかねないと思う。
「内匠頭。日ノ本すべてが、尾張のように太平の世となる日は訪れるのであろうか?」
ああ、上皇陛下はこの一言を問いたかったのだろう。オレにはそう思えてならなかった。
「はい。必ずや、左様な日が訪れましょう。無論、幾多の苦難が待ち受けましょう。されど、人の夢、院の祈り。必ず天に届くと私は確信を持っております」
オレはただの凡人だ。多くの人が勘違いするような先の世が見えるなんてことはない。
ただ……、時には演じることも必要だろう。上皇陛下のお心が少しでも軽くなるなら、見えると演じることが必要なんだと思う。
上皇陛下は、穏やかな笑みを浮かべたままゆっくりと外をご覧になられた。ちょうど時計塔の鐘が鳴ったからだろうか。
「願わくは、いつの日か、そなたの生まれた地に行ってみたいものよ」
「機会があれば是非ともお越しくださいませ」
安心されたからだろうか? 言いたくても言えなかったであろう、本音が出たようにお見受けする。
噂や山科さんの報告からだと分からないこともあるからな。御自身で見たいと思われて当然だろう。実現するかどうかはオレには分からない。
でもね。そういう夢を持たれるくらいはあってもいいのかなと思う。人である以上、夢を持つことに年齢や立場は関係ない。
京の都は尾張と違い大変だろうしね。
そのくらいは……。
Side:山科言継
内匠頭と
思うところがないとは言わぬが、これで良いのだとも思う。ここは尾張。夢幻の如くある国じゃからの。
御還御が迫り、支度が進む。広橋公は、戻られることは果たして院の御内意であるのかと悩んでおる様子。尾張におると、吾らが正しきことと思うことが揺らぐからの。
当たり前にあるべきことを改めて考える。それは吾らもまた尾張から学んだこと。
「いずれ……」
雌雄を決する、或いは流される
吾は京の都に戻る前に、世話になった者らにあいさつ回りをしておる。
「長々と世話になったの」
「御無事の御還御を願っておりまする」
平手殿を訪ねて那古野城に出向いたが、穏やかでよい顔をしておるわ。
「傅役として勤めておるものの、半ば隠居か。少し羨んでしまうわ」
尾張者の中では古くから知るひとりじゃが、思わず立場を変わってほしいと思うほど良き暮らしをしておるわ。
弾正や尾張介の信も厚く、久遠家が尾張に参った頃より後見役のように助けておったおかげで、今でも内匠頭や奥方らに慕われておる。内匠頭が困りし時、助けを求めるのはこの男だと言われるほど尾張では皆に頼りにされておるほどよ。
「某など、すでにお役御免となったまで。若い者が皆励んでおりまする故に」
「それでよいではないか。吾とて代われる者がおるならば、お役御免となり隠居したいものよ」
変わりゆく尾張を、この男はいかに見ておるのであろうか? 世に名が知られる者らが数多おる尾張故に、さほど目立つこともないが、この男ひとりでも朝廷におればなと思わずにはおられぬ。
「苦難の道であっても必ずや光明は差すことと存じまする。帝や朝廷の皆々様ならば……」
光明か。光明は尾張と共にありと思えるがの。されど、主上と院は確かに光明を得たのも事実か。
「そうじゃの。これからも良しなに頼む」
「ははっ、心得ましてございまする」
頭を下げて
今は別れを惜しまれるように挨拶に出向くしかあるまい。
まことに名残惜しい国よ。このまま残りたいくらいじゃ。
◆◆
永禄二年六月。『言継卿記』に、御還御前の後奈良上皇が久遠一馬と余人を交えずの謁見をご
話した内容など一切残っていないものの、斯波家や織田家も承知のことと思われ、当時の一馬の立場や状況が垣間見える一文である。
謁見後の後奈良上皇は、とても穏やかで満足げであったとだけ書かれている。
◆◆
尾張介=織田信長
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