第1615話・過ぎ去りし時の違い

Side:浅井久政


 まさか再び尾張の地に足を踏み入れるとはな。此度は東海道を通り、三十数名の武士と郎党などで百名以上の者でやってきた。


「なんと賑やかな湊だ」


 久遠船を降りる前から、幾人もの者が啞然としておった。近江とて賑わう町や湊はある。されど、海に浮かぶ幾艘もの船と見慣れぬ建屋がある湊に驚かぬ者はおるまいな。


 わしのような厄介者に尾張を見せるのかと思うたが、それも違うようだ。元服したばかりの者や特に悪い噂を聞かぬ者も多い。中には自ら尾張に学びに行きたいと願い出た者もおるとか。


「にしても隣国に学びに行けとは異な仰せだ」


「高名な寺社に学ぶようなものでございましょうな。尾張には明や南蛮の知恵がありまする」


 驚いたのはこの者だ。蒲生左兵衛大夫賢秀。六角の宿老の嫡男がわざわざ同行するとはな。


「皆、身綺麗にしておりまするなぁ。着物も上物がちらほらと見られまする」


 幸次郎の言葉に皆が周りを見た。確かに身綺麗にしておるわ。湊で働く者など褌一丁で薄汚れておるのが当然だというのに。


「ささ、参るぞ」


 今宵は蟹江で宿を取る。ここには久遠が掘った温泉があると噂を聞いたことがある。温泉で我らも旅の垢を落として清洲に参るのだとか。


 道すがら沿道で物売りが見られる。食い物もあるようだが、なにやら見ても分からぬものもある。観音寺城下では見かけぬものも多いか。


「思えば愚かなことをしたものだ」


 父上の頃とはわけが違うと知らずに、愚かしくも挙兵したわしは尾張ではいい笑い者であろうな。


「そう言われるな。浅井殿の立場となれば、皆同じことをしよう。相手が織田と斎藤でなくば違っておったはずだ」


 思わず愚痴ると、左兵衛大夫殿がわし如きを気遣う言葉を掛けてくれた。捨て置いていいものを。まあ、尾張で騒動を起こされたくないのであろうがな。


「愚かな己の所業を学ばねばならぬ身分故にな」


「『忠義は生きて尽くせ。汚名は生きてそそげ』とは尾張の言葉だそうだ。甲賀の三雲も久遠殿の下で、伊豆の島の代官として新たな道を歩んでおるとか。御屋形様はそれを聞いてそなたにも今一度機会をとお考えなのだ」


「家の存続だけで十分温情を受けておるというのに」


 左様なお考えがあったのか。わしなど捨て置いて、倅が元服したのちに使うてやるだけでよいと思うがな。


「下野守殿もすぐに分かるはずだ。最早、左様なことを言うておる世ではないのだ。我ら皆が学び追いかけねばならぬのだ。この国をな」


 蒲生家の者にここまで言わせるのか。あれから尾張もまた変わったということか。


 まあよい。わしは与えられた役目をまっとうする以外にないのだ。それでよいはずだ。




Side:久遠一馬


 暦も四月となり、田畑に作付けが進むと尾張の景色も変わる。今は収穫を前にした麦畑が実っていて、そんな景色がホッとする。


 ウチではお清ちゃんとかおりさんの出産が控えている。ふたりとも今月中に出産予定だ。子供たちも弟や妹が生まれるということで楽しみにしている。


「ええ、構いませんよ」


 清洲城で予期せぬ頼み事をされた。


「かたじけない。不要な因縁となるのは避けたいのでな」


 相手は義龍さんだ。浅井久政さんとの席を取り持ってほしいと頼まれた。斎藤家と浅井は、義龍さんの奥さんである近江の方の処遇以降、縁が切れたままだからなぁ。喜太郎君のこともある。また、斯波家と今川とのこともあったし、不要な因縁にならないようにしたいというのは当然だろう。


 実は久政さんが尾張に来るんだよね。今日あたり蟹江に到着するはず。義賢さんも、家中の因縁やら問題になりそうなことをひとつひとつ片付けているんだ。


 彼にもそろそろ役目でも与えて、北近江三郡が二度と騒動を起こさないようにしたいらしい。


「少し様子を見せて席を設けますよ。浅井殿も落ち着いてからのほうが受け入れやすいでしょうし」


 六角家からは人材交流の一環として尾張に人が来るんだよね。人質と見られると面倒だから元服した大人ばかりだけど。尾張で織田の統治や体制を学ぶ第一陣になる。


 義賢さん。頑張っているし世評もいい。先代に続いて管領代となったこともあり影響力は強いんだ。畿内が未だに細川と三好の対立が続く中で近江を安定させているのも理由だ。


 家臣の俸禄化とか領内整備も検討しているものの、家臣に現実を見せて学んでもらわないとどうしようもないからなぁ。宿老クラスになると理解していても、その下はあまり理解してないと言える。


 相変わらず、ウチはこの手の相談事が多い。義統さんや信秀さんには頼みにくいし、この手は相応の影響力が必要なんだ。政秀さんが傅役以外は公務をほとんどしてないからね。


 家老衆とか織田一族とかも似たようなことをしているけど、ウチは諸国に名が知れているのでこういう役目も回ってくる。


「我が子に伯父と絶縁状態とは言いとうなくてな」


「喜太郎殿の世代だとそうでしょうね」


 いま、尾張で育っている世代は戦国の世とは少し違う価値観で育っている。裏切り裏切られ、戦が終わったのちに体裁を整えて、収まるところに収めるという旧来のやり方を当然としていないんだ。


 夢物語のような教育なんてしていないけど、平和な尾張にいると実感出来ないことが多いというのが現実なんだろう。


 喜太郎君、割と多才だと聞いている。武芸も学問も真面目に受けているし、絵を描くことも上手いらしい。彼は好きな時計塔の絵を幾つも描いているみたい。


「尾張と美濃が争うておったなど信じられぬようでな」


 それほど長い年月が過ぎたわけではない。七年ほど前のことだ。ただ、大人の一年と子供の一年は感覚的に違う。


 オレや義龍さんにとっては少し前のことだが、子供たちにとっては過去のことなんだ。尾張と美濃の争いは。


 道三さんのことも、すでに謀叛を企むと疑う人はほとんどいないだろう。本人は完全に隠居したいらしいけどね。越前と近江を隣にする美濃代官の後釜は難しい。義龍さんをそちらに回すと工務総奉行を変えないといけなくなるからなぁ。


 道三さんや義龍さんと話をして、斎藤家以外から美濃代官を出してはという案もある。代官職や総奉行職は世襲しないと公言しているし、その先例にちょうどいいのではというんだ。


 ただ、それでもまだ早いというのがオレたちの本音だ。


 まあ、道三さんの負担軽減もしていて文官を増やすなどいろいろ試行錯誤しているんだけどね。形として動かすのはもう少し先にしたい。


 ともあれ、久政さんは今の尾張をどう受け止めるんだろうか。



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