第1591話・春の足音
Side:久遠一馬
二月も数日過ぎると、季節が春へと変わりつつある。
ああ、伊勢のほうも少し動きがあった。大湊では舟橋を用いた久遠船の桟橋を造ることにしたみたい。いざ変えるとなると、あれもほしいこれも変えたいと意見はいろいろ出たようだけどね。まずは荷の陸揚げ能力を最優先にするらしい。
宇治・山田も、商いに関しては落ち着きを取り戻しつつある。今はこちらを騙して暴利を得た、抜け荷の調査を北畠家主導で行なっている。戻る気のある人は戻ったようで、北畠家としては彼らから回収する利と今後の利で多少は楽になるだろう。
伊勢神宮は穢れとその原因をウチが突き止めたと聞いたようで、穢れについてどうするか少し考えているようだけど、正直これは好きにしてくださいとしか言いようがない。蔵人のように誰彼構わず強制するようなことをしないで、神宮を訪れる人向けの規定なら口を出す問題じゃない。
あと北伊勢。野分や一揆で荒れた土地はだいぶ復興した。ただ、あそこは土地を今後どうするのかが決まっていない。一旦取り上げちゃったからね。賦役方式で集団農場となっている。
この時代では土地の分配はデリケートな問題であり、また一長一短あることだ。
尾張と美濃では街道整備がさらに進み、治水も河川の整理や一部川筋の変更など賦役があちこちで行われている。武士や寺社の領地がなくなったことで、武士も寺社も地元を広く考えるようになった。
水利の争いなどは相変わらずあるものの、賦役で食えることや川筋の整理などで改善するという希望もあり、武器を持つ争いはもうほとんどない。まあ、勝手に争えば双方に罰を与えていることが一番の理由だと思うけど。
三河は驚くほど安定したなぁ。西三河の一向宗は願証寺傘下ということもあり上手くやっているし、武士も史実で敵味方に分かれて何度も争った者たちも織田の治世に馴染み始めている。
この世界で三河一向一揆が起きることはもうないだろう。
今は三河の東西格差をなくすべく統治が進んでいて、街道や湊の整備や治水など続いているね。
もっとも渥美半島内陸部は無人の土地が増えたままだけど。海運が盛んになっているので、湊は相応に人も残っていてテコ入れしているものの、知多半島との格差で逃げ出した人は戻っておらず、領民が消えた廃村が幾つもある。
一旦耕作放棄した土地を農地に戻すのはやはり大変なんだよね。賦役などもあり知多半島や西三河に移住した人たちが自発的に戻ることはないだろう。
遠江や信濃への街道もあり、三河は今後、右肩上がりで良くなると思う。ほんとここまでなるには大変だったけどね。
尾張を中心にした周辺の国は、確実に史実と違う流れになっている。志摩・飛騨・甲斐・信濃・駿河・遠江と広がった領地を変えていく原動力になってくれるだろう。
「信濃も負担はあるんだけどねぇ」
新領地、面倒なのはあれこれと騒ぐ駿河と遠江だけど、安定しているのもそこなんだよね。一方の割と大人しくなった信濃だけど、長年の争いや武田による搾取の傷跡が酷い。あと諏訪による高遠荒らしで荒廃した旧高遠領も地味に問題だ。
「今年は良くなるでしょう」
エルも予測というより期待を込めた感じだ。あっちはまだ街道整備優先だからなぁ。まあ、蕎麦でも粟稗でもなんでもいいからとにかく育てるしかない。
まあ、北の村上と話が付いたのでリスクが減ったのは大きなプラスだね。しばらくウルザたちにお願いする状況は続くけど。
甲斐は……、まあ人材は豊富なんだよね。先行きに期待しよう。
Side:武田晴信
許すべき時は遠くないか。
本音をいえば許せぬところもある。されど、それを言うならば父上はわしより更に許せぬはず。その父上がなにも言わぬことがすべてよ。
なにより、貧しき甲斐は織田家にとって厄介な地でしかないのだ。せめて穴山と小山田を従えて、憂いなく国を治められるようにせねば、家中に顔向け出来ぬ。
「申し訳ございませぬ」
「すべてが武田殿の責とは言えぬ。それに誰それが悪いと言うたところで良くなるものでもない。それより移住の件は確実に行なってくれ」
家老衆の佐久間大学殿に深々と頭を下げると、情けを掛けるように穏やかな口調で諭された。織田に降らなんだ土豪や村がこちらの村と小競り合いをしており、その懸念が評定で話されたと聞き、謝罪に出向いたのだ。
「畏まりましてございます」
「そういえば聞いたか? 甲斐は米を減らしたほうが良いそうだ。例の土かぶれの病もある。内匠頭殿がいくつか作物や果実を試すそうだ」
甲斐もまた変わろうとしておる。腹でっぱりや土かぶれと称される病。あれの対処にこれほど早く動くとは。
「某には思いつきませなんだ。米を減らせば飢えると恐れるばかり……」
「あまり気にするな。久遠の知恵は我らにも無い。ただ、学んだことを活かす心得は覚えておかれたほうが良いぞ。知恵は学ぶのみならず。より良き知恵を皆で考え見つけるのだそうだ」
「はっ、肝に銘じておきまする」
「我らは己でやれることをやらねばならぬ。飢え、争い、親や子を疑うような暮らしなど御免だ。甘いのかもしれぬがな」
人が人を動かす。わしは尾張に来て、その奥深さを学んだ。
「それは某にもよう分かりまする」
主君とならずとも多くの者がひとりの男を信じて、自ら動くのだ。信じられぬことを成しておるわ。外から見ると分からぬはずだ。武衛様も大殿もまた内匠頭殿を信じて動いておるなど。
「貧しさは人を狂わせるか。我らとて甲斐を笑えぬ。皆も理解しておろう」
東国一の卑怯者。左様な謗りを尾張で受けたことはない。少なくとも表立って口にする者はおらぬ。家中の重臣らからはむしろ同情される。
「御家のため、受けた情けを返すためにも励みまする」
「あまり抱え込まずに励め。さもなくば薬師殿にお叱りを受けるぞ。無理をすると皆の迷惑になるのだとな。さらに、これから続く者たちのためにも、役目は決して無理をしてはならんのだそうだ。遥か先、子や孫の代のためにもな」
信じるに値せぬと捨て置かれるでもなく、使い潰されるでもない。小笠原や今川と同じく新しい治世の教えを受けておる。かようなことになるとは思わなんだ。
尾張の恐ろしきところは、すでに久遠の知恵により武士はおろか坊主や民すら変わりつつあることであろう。
降ったことだけは間違いない。それだけはなにがあっても変わるまい。
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